《長靴をはいた猫》
時を経ても語り継がれ、人々の意識に残り続ける物語には、その内側に全母からのメッセージが織り込まれていることが良くあるのはご存知の通り。
この話についてもそれが当てはまり、以前から「猫が長靴?」とその奇妙さに興味を持っていたのだが、大変面白く奥深いメッセージを読み解くことが出来たので、本日記事にてご報告申し上げる。
ちなみに全母からのメッセージが含まれる創作物は、一個人の手によるものは少なく、複数の人間が関わってその生成に“はからずも”の力がかかっていることが殆どである。
この物語もシャルル・ペローが書いているとか、彼の夭折した息子の作品を元にしているとか、親と子の双方が現地に古くから伝わる民話をイメージの源流にしているとか、色々なことが伝えられ真相は霧の中。
音もなく部屋に忍び込む猫の様に、いつの間にか文学史上に現われて、当然な顔をしてちゃっかりと居座っている物語なのだ。
一人の粉ひきが亡くなり、その三人の息子に財産が分けられる所から物語は始まる。
長男には水車小屋。
次男にはロバ。
末の三男には猫。
水車小屋とロバについては資産価値を想像することは難くない。
ロバは小屋でひいた粉を運ぶことが出来るし、お話の中でも長男と次男は一緒に粉ひきをやっていくようなことが書いてあったりもする。
猫だって穀物を食べに来る鼠退治には役立つのだが、有り難みが細かすぎて兄達には伝わらなかったのか、その辺はスルーされてポンと単体で三男に配給される。
相続財産に猫のみ。
どうイマジンしてみても、およそお呼びでないアイテムであり、
水車小屋→不動産
ロバ→用途が明確な動産
猫→用途不明の動産
この様に整理できる。
用途不明な上に、飼って費用がかさめばあっという間に負債に転じる。
三男もそう感じたらしく、「肉を食べちゃってマフ(両側から手を入れて暖めるグッズ)にするしかない」と、猫に告げている。
マフにする相手に直で言っているので大分ショッキングな宣言だが、猫は諦めずに、しかもおねだりをする。
長靴を下さい、と。
訳の分からない存在からの、訳の分からないリクエスト。
しかも「そうしてくれたら、あなたの分け前もそんなに悪くないと分かりますよ」という、具体的に何をどうしてくれるとか言う保証の一切ない曖昧な提示である。
父と言う、それまであった後ろ盾の死。
兄弟も引き止めてくれる訳でもない。
何の当てもなく世に出て、一人行かねばならず、道連れには喋る猫という「訳の分からないもの」だけ。
しかもその訳が分からないし金にもなりそうにないものが更に長靴と言う、訳は分からないし金はかかることを求めて来る。
こんなあれこれが発生した時に、果たしてどれ程の人が起きていることの波に乗れるだろうか。
だが三男はそれに乗った。
彼は以前から、猫が機転を利かせてとても上手に鼠を捕ることに気がついていた。
それが「猫に任せてみようかな」とした理由なのだが、素晴らしい。
猫が長靴をはくなんて非常識だ、とか
主人に要求なんて生意気だぞ、とか
只でさえ遺産に猫だなんて貧乏くじなのに、これ以上金が減ることなんて出来るか、とか
そんなことはなしに彼は、猫と、
猫の才能を見抜いた
自身の感覚
に活路を求めたのだ。
何より彼は、
猫の話が
素直に聴けた。
常識の外にある存在から発せられるメッセージを、受け取ることが出来る者であった。
そして、そんな者がもう一人。
猫が目を付けた王様である。
帽子と長靴だけ身につけた動物が、袋に入れてかついで来たプレゼントを「わ〜ありがとう!」と喜べる、器の持ち主。
しかも猫がくれた兎や鳥は食材としてのプレゼントなのだ。
訳の分からない存在からの贈り物を口にして咀嚼し、飲み込める。
これ程に“半端ない受け入れ力を持っている様”を上手く示す表現も、そうそうない気がする。
そんな王様にも、望外の喜びが訪れる。
広大な領地と豪奢な城を持つ公爵である、感じのいい若者が、王女と結婚して娘婿になった。
結果自らの富が増えることにもなった訳である。
三男も王様も、猫にああせい、こうせい、あれくれ、これくれとやんや言った訳ではない。
得体の知れないものの活躍をそのもの自体に任せてのびのびと自由にさせ、時にはその要望に自らが従う。
三男は猫の指示通り裸になって川に入ったし、「カラバ公爵」という猫が彼につけた名前を抵抗なく名乗っている。
動物が人間の名付け親、という話は後にも先にもこれ以外に聞いたことがない。
川に入って洗礼を受け、洗礼名まで付いた三男は、粉屋の息子からカラバ公爵に生まれ変わる。
洒落のようだが、カラバは「空場」である。内側が完全に空間となった生ける“場”としての存在。
全母の御技には舌を巻くばかりだ。
王様も贈り物を素直に受け取り、また、助けを求める猫の懇願に応えて公爵を川から救い上げ、一番上等な服をプレゼントしている。
その声を聴くことの出来る者達の理解ある態度のおかげで、長靴をはいた猫という“訳の分からないもの”は縦横無尽に活躍し、およそ人の頭では想像もつかないし、出来もしないことをやってのけ、大団円を実現した。
鬼退治までやってのける。
三男が猫の話に乗ったのは「それが全くの未知であり面白かったから」でもあると思う。
こんなものの話など聴くに値しない。
こんな些細なことなど何の役にも立たない。
微細な感覚など自分に分かる訳がない。
そう決めつけて諦める者は多い。
だがそうした自己保身からの相続放棄をしなかった者だけが、新たな領域を拓き、未知という果実を味わうことが出来るのだ。
“猫”の話を聴いてみよう。
(2017/1/30)