《鏡は横にひび割れて》
本日は成人式&多くの地域で鏡開きの日。
鏡開きは餅に宿る年神の力を食べることでチャージし、新年の無病息災を願う為に武家の間で始まった行事と言われている。
力を頂く餅に刃物を使うことは武家的には切腹を連想させ、それを避ける為に手や木槌などで割ろうと言うことに。
しかしその割るという表現も縁起が悪いとして、末広がりを意味する開くに変えて「鏡開き」と呼ぶようになったらしい。
担げる縁起は全部担いで来る動きは、何につけ権威や情趣を求めるお公家さんに顕著だが、お武家さんもやっぱり担げる縁起は全部担いで来る。
「神仏を尊びて、神仏を頼らず」的な独立が出来るのはごく一部で、武家と言っても戦勝祈願のみならず日々の無病息災も関心事に含まれている。
不覚としては当然のことと言える。
覚めない意識には常に様々な不安がついて回るので、そこへのケアが求められるからである。
供えて、開いて、食べて、力の供給が完成する鏡開きシステム。
この仕組みを観察すると、結局、供えることは受け取る側の為になっており、どこまでも自他はないことは明らかだが、不安払拭の為の縁起担ぎに留まる不覚意識はその辺は視界に入れない。
気に入る所しか見ないから、全体一つに還りつくのではなく、その時々のちょっとした安心感を受け取り続けている。
これは逆に言えば不覚ならではの味わいであり、「だからこそ良いんだよ」となる不安・安心ファンにはとっては大変好みの味付けとなる。
ちょっとした安心感では満足出来ないセンスをお持ちの皆様は鏡開きの餅を、年神だけでなく内なる自らの贈ったものとしてもお受け取りになり、無限なる弥栄の循環のあることを祝福して頂ければ、この行事の真髄を味わうことが出来る。
鏡開きも、「良く分からんが知ることが必要な“何か”がある」と勘づいた人々が「知りたい!」と目を瞑ったまま放った問いに応えて、全母たる虚空が授けた行事だからである。
切っちゃあ駄目、割っちゃあ駄目の鏡餅に意識を向けていて不意に、有名な小説のタイトルである表題の言葉が上から降って来て、
「え?割れちゃったの?」
となった。
何だってこれが来たのか、そして何だって「横に」ひび割れるのか。
罅、と言う位だから亀裂の方向には斜めもあるし、範囲が広ければそれこそ縦横無尽に行くものなんじゃないだろうか。
きっちりボーダー柄の罅なんか見たことない。
それを何故わざわざ横にとしたのか。
原作を映像化した作品を観察してみて、その“横へのひび割れ”具合に感心した。
本日は既に鏡開きについて結構書いており、これに足すと相当長くなるので話の内容についてはあまり詳しく触れない。
興味のある方は、ご覧になられてみて頂きたい。
二時間ばかりの中で様々な人が出て来るが、とてつもない悪人も居ないし、聖人みたいな善人も居ない。
そしてほぼ全員、自分の為に生きている。
そんな人々の自分の為に通そうとした思惑同士がぶつかって、突然「悲劇」と呼ばれる出来事が発生する。
只、それが起こるずっと前から、見えない所で歪みは膨らみ続けていたことは作品を観察していて分かった。
表面はつるりとなっていても圧をかけた歪みは軋みとなり、やがてひび割れを生むのだ。
ひび割れは、我の集合体。
前に、「われわれ」とは全なる虚空を体験の為に敢えて幾つもに“割った”もの、つまり「割れ割れ」なのだと言う様なことを書いた。
虚空を“割った”それぞれを、更に分けて歪めたのが我である。
既に割ってある「割れ割れ」ではあるが、質においては全なる虚空と同じなので、同じく全てを内包している。
その全てであることを認めずに、気に入った所だけ採用し、他は「なかったこと」として葬り去ろうとする歪んだ状態が「我」なのだ。
気に入るものも、気に入らぬものも、どちらも歪む。
一つの人格の中に、選ばれたもの選ばれないもの、どちらも沢山の我が居る。
作中に登場する大女優を観察するとバラけっぷりが良く出ていて、とても分かり易い。
優しい我、有能な我、残酷な我、繊細な我、無能な我、無邪気な我。更に沢山の我、我、我。
世に満ちる沢山の人間同士の関係性が意識の鏡を引き裂くので、やはり「横に」が相応しい。
天地と繋がる中心のみを通って「縦」に鏡を「割る」ことは無理。
割られず、それは可能性を「開く」ことになる。
ひび割れた人々は、ひび割れた結果を招き寄せたが、この作品の中で調和の取れた動きをしていた人々も居る。
途中彼らにも、我の強い人々に閉口する場面がある。
老人だからと決めつけて自立した大人を幼児扱いして世話を焼くトンチンカンな善意の人や、騒音を出して日常の集中を乱して来る自分本位な隣人にウンザリしても、調和して動く人々は自らの快適な人生や心の平安の為に邪魔者を倒そうとはしない。
ここがひび割れた人々との大きな違いである。
見事なのは閉口する状況同士が終盤に更なる調和を見せて、歪みが溶けて行った所。
全体一つの流れの中で巡って来た役割を、素直に行った人々の鏡開きを『鏡は横にひび割れて』で観せて貰えるとは驚きだった。
これも又、弥栄の運びと感謝したい。
歓びで開き、和する時代。
(2021/1/11)