《鏡と玉》
天岩戸開きの中で用意される鏡と玉。
これらは何を象徴するものであるか。
それに気づいた時、本当に見事なことだと一層この話の味わい深さが増した。
手間がかかりそうなこともあっという間に片づけて、欲しいものは難なく手に入れる存在として、人間がイメージする“カミサマ”。
そこから全く外れる感じで、鏡も玉も実に地に足着いた地道な作業を経て用意される。
何せ材料から集め始める。先だって《有無の力》と言う記事の中で、
“鏡作りに際して、金属から製造したアマツマラに男の要素、鏡に加工したイシコリドメに女の要素が反映されている。
男と女の共同作業で生まれる鏡に映る姿は新たな出生、新生を意味している。”
と書いた。
アマツマラが材料を形にし、イシコリドメが磨いて作る鏡。
玉作りの神タマノオヤについては特に性別の記載はなく、一神で沢山の勾玉を通した玉飾りを作っている。
玉は照らされて輝くもの。
鏡は輝きを映し出すもの。
それぞれ日と月に通じるが、少し異なる点もある。
玉は光を受けて輝くものであり、光源とはならないからである。
自然発光する玉なのであれば、話の中でそのことを書いておくだろう。
「少し、違うんだなぁ…」と鏡と玉を眺めていた時、不意にこれは
鏡は晴々と澄み渡る意識を象徴
玉飾りは沢山の実行体験を象徴
しているのだと気づいた。
何故、普く照らす輝きの元であるアマテラスの来る前に、鏡と玉の用意があるのか。
不覚の段階から、光を受け取る用意は出来るし、必要であると言うこと。
新しき夜の明ける前から鏡を用意(意識を澄み渡らせる)。
暗い中でも玉を作る(力を尽くしての実行による体験を重ねる)。
どちらも、覚めぬうちから人が成せることの雛型となっているのだ。
鏡や玉の用意なしに、只“その瞬間”が起こることを求めて、岩戸を開く方法や開いてくれそうな誰かを探し回る。
目覚めを求める中にはそんな人々も居る。
彼らの中でも、中立な意識が肝心であると知っている人は多い。
只、中立な意識と天意からの愛による、本気の実行体験と言う“玉”が必要、それも連ねて通す程必要であると言う点は、あまり注目されていない。
鏡と玉。光を受けて輝き、輝きを映すにはどちらも滑らかさが要る。
凹凸のない、つるつる。
その様に在ろうと、意識と言う鏡を磨くことを意志されて来た方々。
皆様はその意識で、これまでどれだけの玉を磨き、連ね通して来られただろうか。
澄む意識、輝く験。
(2022/5/12)