削るに削れず、こんなボリュームになりました。
週明けから長くてあいすみませんが、飽きたら程々に休憩なさるなどして皆様それぞれに良い塩梅でご覧下さい。
では、記事へ。
《金のガチョウ》
風変わりな話が多いグリム童話の中でも、殊に奇妙な面白さを持つこの物語の奥に、思いがけない真理を発見したので本日記事にてご報告する。
超長いのだが、全編重要なのであらすじから申し上げる。
三人の息子を持つ夫婦が居た。
上の二人は賢いと可愛がられたが、末っ子はいつも皆にからかわれ、馬鹿にされていた。
ある時、兄二人が順々に、パンケーキと葡萄酒を持たされて、森に木を伐りに行く。
そこで出会った小人から「空腹で喉も渇いているので、食べ物と飲み物を分けて欲しい」と頼まれる。
兄達は「そんなことをしたら僕の分が減るだろう、嫌だね」と突っぱねて、結果何故だか木を伐る手元がくるって手や足を怪我して家に帰る。
末っ子も森に行きたがり、水と灰をこねたケーキと酸っぱいビールと言う大分差を付けられた昼食を持たされて送り出される。
やはり出会った小人の願いを末っ子は気前よく了承し、一緒に食べようとすると灰のケーキは素敵なケーキに、酸っぱいビールは上等の葡萄酒に変わっていた。
小人の魔法によるもので、これだけでも十分お礼になりそうだが、更に近くの古い木を伐ってみろと言われる。
言われた通りに伐り倒すと中の空洞に純金の羽根を持つガチョウが収まっていた。
末っ子の素直さと寛容さに対する小人のお礼であり、ガチョウを抱えた末っ子はもうすっかり夜になっていたので、近くに宿をとる。
宿の主人には娘が三人居て、娘たちは皆、金のガチョウをひと目見て、その羽根が一枚欲しくなった。
末っ子の隙を見て娘の一人がガチョウに手を伸ばし、羽根を取ろうとした途端、手がガチョウにくっついて離れない。
加勢したもう一人も最初の娘にくっついて離れなくなり、最後の娘も他の二人がしているからと真似をして、まんまとくっついた。
朝になって、手土産がガチョウwith娘達になっているのを気にせず、末っ子はガチョウを抱えると出発。
この後「若い娘が男の後をくっついて回るのはやめなさい」と止めようとした牧師、「これから洗礼の仕事なのに何処に行くのか」と止めようとした堂守、「助けてくれ」と牧師に頼まれた農夫達と、順々に後ろにはりついて列が延びる。
そのままお城に行くと、丁度王様が、真面目過ぎて笑ったことのない姫を笑わせた者に嫁にやるとお触れを出していた。
ガチョウ一行の珍妙さ、くっついた人々の必死な様子の滑稽さに姫様大笑い。
笑ったんだからお嫁にちょーだいと言う末っ子に「婿が抜け作って嫌だな」と思った王様は、断る口実として無理難題を吹っかける。
城の蔵にある酒を全て飲み干せる男や、山と同じ程の量のパンを食べ尽くせる男を次々と「つれて来い」と要求されるが、その度にあの不思議な小人が成り代わって解決してくれる。
最後に要求した陸でも海でも走れる船まで小人が出して末っ子が持って行くと、ついに王様も根負け。
姫と結婚した末っ子は後に王様になり、幸せに暮らしましたとさ。
ざっとこんな感じ。
末っ子の呼び名は本によって「抜け作」「アホっこ」「(トンマの)トンちゃん」等、訳され方は様々だがいずれにしてもひどい内容。
継子でもなく肉の親兄弟からこの扱い、中々ハードな生い立ちと言える。
だが、彼は気にしていない。自分だけが灰で焼いたケーキや酸っぱいビールを持たされても「それがそれだ」と気づいているのに、嘆きも恨みもしていない。えらく達観している。
そして「これで良ければ」と与えられた食事を、ひょっこり出て来た見も知らぬ小人と分け合う。
一緒に食べていることで、不味くていらないからくれてやるのではなく、彼にとっても大事な昼食なのだと分かる。
それをためらい無く分け合う。
末っ子が、「恵まれてる恵まれてない」「減る減らない」を念頭において暮らしていないことが良く分かる場面である。
とにかくこの末っ子、基本
気にしない
泊まった宿屋の娘三人が、自分の持ってるガチョウにくっついて離れなくなってても、気にせずそのままチェックアウト。
どうなってんだと驚くが、更に叱る牧師やその部下、通りかかった農夫まで、とにかく来る者拒まずで誰が加わろうが気にしない。
末っ子だけはガチョウの着脱が自由なのだ。好きな様に持ち運び、どっかに置いたりも出来る。
彼と後ろにくっつく者達との差は執着や拘りであると感じる。
「金の羽根欲しい」
「姉達と同じがいい」
「若い娘がけしからん」
「洗礼の仕事して」
「偉い人が取ってくれって言うんだから」
全員共通しているのが
「手に入れなきゃor離さなきゃ」
末っ子はガチョウを所有するとかしないとか、気にしていない。
貰ったから小脇に抱えているだけである。
この違いが、自由度の違いとなる。
三人娘は末っ子の了承もガチョウの了承も得ずに、羽根を一枚くすねようとした。
たっぷりあるのだから一枚ぐらい、と言う訳だ。
自他や多寡の概念にとらわれ、しかも盗みに走る。
このバッドバランスが手にガチョウをはりつけたのである。
牧師も表向きは「若い娘がみっともない」と助けに入るが、そもそも事情を聞くのも諭すのも口頭で十分。
実質は「けしからん」と言いながら、「若い娘に触れる千載一遇のチャンスに飛びついた」のではないだろうか。
聖職者の欺瞞は、がちょうにくっついた女を手にくっつけるには十分なボンドであり、その部下の「洗礼の仕事があるんだぞ、働け俺の飯の種」的な要求も同じ。
通りかかった農夫達は流れ弾に当たった感あるが、「牧師様達が言うんだから」と、偉い人の言うことは聞くべぇな固定観念も、ガチョウにひっつく原因となる。
ガチョウ一行を目にして“くっつき理由”を全て見抜き、この大騒ぎを従えて気にせず登場したから末っ子に笑ってみせたのなら、姫さんも大したセンスの持ち主である。
末っ子は最初から姫さん狙いだったのではない。
流れに乗ったら結果そうなっただけだ。
ガチョウ関係でもう一つ有名なのが、得る幸福を最大にしようと狙った農夫が、金のタマゴを産むガチョウを殺して、富の流れをオジャンにした話であるが、これと対照的。
貰ったガチョウは付かず離れず気にせずに、小脇に抱えておく。
これが最もガチョウを活かす道となる。
末っ子の行動を見つめて「ほんと気にしないな〜」と驚きはしたが、間抜けやアホとは感じなかった。
人より足りないどころか、むしろ悟った上での行動であり、それが不覚者から見た時に「損得勘定が足りない」と映ったのだろう。
現代の不覚社会でも、「損得が計れないからアホなのだ」と周囲に決めつけられながら、それも気にせず自由に暮らす端末達が居るのではと気づいた。「アホ?そうか〜、アホなのかなぁ」等と頭を掻きながら。
彼らには今後の変化の波はきつく出て来ない。むしろ「何か知らんが楽」と、なるだろう。
きつくなるのはガチョウから離れられない人々だ。
この物語の書かれた本を幾つか読んだが、どれも中に「くっついた面々が、ガチョウから解放されたのかされていないのか」が書かれていない。
姫様大笑いの後は「酒、パン、船、ハッピーエンド」で、ガチョウそのものが話に全く出て来ない。
揃って何処に行ったのだろうか?
手がくっついたままでは、その富をどれ程求めようとも味わうことは出来ず只、引きずられるのみ。
そのことを本当に分かって、「内なる欲しがり」が消え失せた時、ガチョウから手が離れる。
いつでもどこでも自由になれるのだ。
ガチョウが居ても気にしない。
(2017/7/31)