《過剰の結晶》
不覚にとっては何をするにもこれまで通りには行かないことを感じただろう夏が、過ぎようとしている。
覚めない人類の好き放題が輝いていた最後辺りの夏を観察しようと、調べていてこんなものに行き当った。
どうしたって過剰。
全部を表す100に気軽に0を足して、「全全部!!」位の勢いにしている。
「その位、素敵だぜ!」と言うことか。
動画を観察しながら気がついた。
「ほぼほぼ人居ないな」
何と言うか開放感がすごい。
人の姿は時折チョロチョロっと、現れる程度。
物理次元によく見る、やんやか騒がしい海辺とは程遠い。
後になってやっと人の増えた場面も出て来るが、それでも「鬱陶しい」とか「暑苦しい」、「邪魔だ」とはならないだろう適度な賑わい。
あらゆる要素が秩序だって、心地よく感じる様に出来ている。
夏の暑さに高揚して生まれる奔放さ。
奔放な欲求を見苦しくなく軽やかに叶える為に加えられた爽やかさ。
恋の眩暈をカクテル的に飲み干しても、二日酔いもなしでへいちゃらな感じ。
その位には元気だが、揺れ動く心の切なさとか寂しさもスパイスとして効かせて来る。
盛られたものをお会計したら、確かに1000%位入っているのかも知れない。
コメント欄を眺めていたら「この時代に戻りたい」「この時代に生まれたかった」的な感想が幾つもあった。
不覚の人は未だ、“目を閉じた Endless Summer”への未練が止まない。
時折挟まれる水着のお姉ちゃん等の夏っぽいビジョン。
永遠のものなどないと言いながら、そのくせどこかで素敵と感じるもののEndはlessになっていることを期待する。
それが虫の良さでなくて、何だと言うのか。
呆れ半分で聴いていて、
「陽差しも溶けるフォトグラフって、やっぱどうしたって過剰だよ。
あれ、それにしても最後の最後では気づかずに的を射たこと言ってんのか」
と、なった。
“ここだけがBrand New Summer”
歌では作り上げた楽園的な夏空間を指して「ここ」とし、「場所を限定」しているのだろうが、「今ここ」と言う「瞬間」に夏は新生している。
勿論、夏に限らず今ここが全てを真新しくする。
オメガトライブが表現した、1000%の不覚幸福は、悪いものでも誤りでもない。
この時代にここまでやり切ってくれたことに感謝が必要な、不覚遺産とでも呼びたくなる美しき過剰の結晶である。
覚めていて、起こり続ける変化の波を受け容れることが出来ていると、不覚全盛期の歪みの一端にも、その全力に愛おしさを感じ拍手を贈ることが出来る。
そして「あの夏をもう一度」とはならない。
これ以上の夏が起こらないのは、
根本的な変化が必要だからだ。
「オメガトライブ」の名は、ヨハネの黙示録に主の言葉として書かれた「私はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」でも有名な「オメガ」、それに「トライブ」(民族)を合わせたもので、「最終民族」を意味するそうだ。
ギリシャアルファベット最初の文字Α(アルファ)と、最後の文字Ω(オメガ)は、初まりと終わりのセットであることから「全て」「永遠」という意味も持つ。
結構スピリチュアルな名だからか、芸能的には重すぎると言うことで説明する時には「最後の仲間」と言い換えたりもしたそうだが、どっちにしたって重い。
よく歌をあんなに軽く出来たもんだ。
最終民族と言う「到達すべき理想像」的なコンセプトが、不覚が思わず永遠を願っちゃう夏を生む下地になったのかと興味深い。
オメガトライブ周りはもうちょっと掘り下げても、面白そうである。
しかし、グッドセンスな皆様には当然お分かりの通り、とっ散らかったままで最終民族となることを望むだけで進化は成らない。
料理番組であればメニューを掲げて作る過程全くなしに
「出来上がりこちらになりまーす」
とする様なもの。
視聴者は想像で香りを楽しみ、「出来上がりの夢」を見る。
そして誰の皿にも、料理は盛られない。
料理を作るのには材料を合わせて、そして材料としての形を手離す必要がある。
「そんなの当たり前じゃない」
そう思っても、エゴによって染みついた癖、それを使って手に入れたものが「今ある形」を失おうとする時には躊躇うのが不覚なのだ。
アルファでありオメガ、最初であり最後、こうした文言を幾ら唱えても、何も起こらない。
頭で知っただけで、体験を経ていないから。
そして、或るものを無視しているからだ。
「或るもの」とは何かについては、木曜記事にて書かせて頂く。
君の字でも示される「きみ」は気と実の世界を合わせたものであるとは、前にも冊子や記事にて申し上げた。
「きみ」が「1000%」になる必要はない。
無限は、1000に収まらない。
皆様それぞれに意識のどこかに設けた最終民族的理想像や理想郷、「100をも超えたすんごい1000」のビジョンがまだ残っていないか、ご確認頂きたい。
「こうあるべき人間像」「こうあって欲しい社会」「こうだったら素晴らしい世界」の思い描きが見つかったら、それらを感謝で労い、そこに対する執着を手離されること。
不覚の理想をどれだけ寝かせておいても、叶わなかったもの、失われたものに変わった時に嘆くだけだ。
過剰の結晶は、それを鮮やかに知らせてくれている。
過ぎ去りし夢の夏に感謝。
(2020/8/24)