本日の記事は、飲食中は読むに適さない内容であるかも知れません。
お食事やおやつのタイミングでご覧になろうと言う皆様は、読むのは一旦お休みして、しばらくしてお腹が落着いてからご覧になられるのもよろしいかと存じます。
では記事へ。
《通過する神》
当宮で扱うにはNEWな題材だが、祝いがたいものを祝っている例として重要であり、個人的感情を刺激する素材でもなさそうなので、書かせて頂くことにする。
この本をご覧になられたことがあるだろうか。
今春に出版され瞬く間に、ベストセラーとなった漢字ドリル。
小学1年生用から6年生用まで1冊ずつ、学習段階に合わせて分かりやすくバラエティーに富んだ、うんこについての例文が満載となっている。
先日、この本の広告を電車内で発見。
そのレイアウトや色彩、例文の字体を観察し驚いた。
何とセンスがいいのだろう。
明るさと軽さを出しながら、全体に行き届いた清潔感があり、隅々まで磨き抜かれた上で「うんこ」と言う素材が扱われている。
佇まいに死角なし。
抜き身の刀の様な隙のなさと、うんこに対する深い敬意が感じられた。
この参考書、開発者が「何故だか子供はうんこを好む」という事実に着目し、「嫌いな勉強を、強く興味が湧く対象を扱うことで楽しく出来るようになれば」と、大の大人が大真面目に惜しみなく奮闘努力し、出版までこぎ着けたものだそうだ。
調べて「成る程」と頷き、嬉しくなった。
単なるウケ狙いでは、この美しさは出ない。
素晴らしい天意の賜物に出会えた歓びと同時に、もう一つ大変嬉しいことがある。
意外だと驚く方も居られるかも知れないが、宮司を名乗る“これ”が不覚時代に何よりも嫌っていたのが
駄洒落と
下ネタ。
お好みの「○○な世界」が出せる、ドラえもんの道具「もしもBOX」に不覚時代に行き会っていたら、即飛び込んで
駄洒落と下ネタのない世界
をオーダーしていただろう程、嫌っていた。
こんな感じで。
世のお父さん方にとって大変辛い世界が生まれていたかも知れない。
かつてはそんな端末であったのに、当宮記事では丁度音が合って駄洒落的になっても、「いいんじゃない?」と鷹揚にオッケーして軽く楽しめてまで居る。
特に好むことはないが、嫌でもない。
変われば変わるものだ。
そうして駄洒落ハードルは目覚め後早々にクリアしたものの、下ネタについては中々。
エロ方面は冊子と、当宮記事でもセクシーに関連して多少扱っていても、うんこのような純度の高い「純下品」についてはまず取り扱う機会がないまま、今日まで過ごして来た。
トイレに関して書いた記事や、映画の中で犬の糞を踏むシーンに触れた記事等あるが、それらは空間の歓びや真の伴侶についてを本題として書いたものなのでノーカウントとする。
不覚時代の宮司は、大体軽い感じでフザケていても特定のジャンルに向けては非常に潔癖だった。
破廉恥や下品に対して殊の外厳しい『昭和の男』が、何でか意識OSに組み込まれており、そこら辺は全く融通が利かなかった。
そんな存在が、世に公開する記事に真正面からうんこを扱える日が来るとは。
不覚時代の2大「消えて無くなれ」存在であった駄洒落&下ネタに天意からの愛を捧げることが、本日記事を以て完遂出来た。
感無量。
八百万の中にうんこの神を見つけたら、迷わず駆け寄って抱きしめる。
それ程の、望外の喜びと感動である。
『うんこ漢字ドリル』を作った大人達にとっては、「子供がうんこを好む理由」はダークマターの存在と同じく謎のままである様だが、当宮では一つの解が出ている。
子供がうんこに
夢中になるのは
大人がうんこを
疎んじるから。
米には神様が宿るとか、餅には霊力が宿るとか、こと「食べる前のもの」に関しては人は簡単に有り難みを見出す。
だが、「食べたその後のもの」に関しては、そうではない。
人体を通ってエネルギーを除かれ、使い道なく出て来るものなんか「用済み!」となる。
損得、要不要の勘定が染み着いた大人達は、何の役にも立たない流れて行くだけの排泄物を疎んじる。
だが、物理次元上を行き来する万物は本来、等しく全母の生み成す歓びである。
人に祝われぬものを
神が祝う。
7歳までは神とも言うが、人間プログラムに染まる前の、プリミティブな神性が残る者達によってうんこは祝われるのだ。
それに呼応して、うんこも本来の神性を発揮する。
人型生命体は、万物を等しく祝うもの。
そうした“神としての本能”がある。
世間で「子供」と呼ばれる人々は、大人が祝えなくなっている分をカバーする形で、熱烈にうんこを祝いたくなるのだ。
勿論、彼らの全員がではない。
だが、かなりの数の「子供な立場にある人々」は、世の中の常識にとらわれてちょっとうんこを祝い難くなっている大人達に成り代わって、働いてくれている。
『うんこ漢字ドリル』が100万部をあっさりと超えたことがそれを証明している。
購入者の中には、思い切ってうんこの世界に飛び込んだ、世間で「大人」と呼ばれる人々も居るだろうか。
何にせよ幸あれ、と言いたい。
大人達がうんこを憎からず思うようになれば、
子供達はうんこへの激しい情熱を緩めるだろう。
人類はこうやってバランスを取り、補い合い続けて来たのだ。
どこかが呪えば、どこかが祝う。
うんこを通じて図らずも全体が一つであると言う事実が、鮮やかに現れ出た。
これも又、望外の喜びである。
惜しみなく、流れ行く神。
(2017/6/5)