どうにも途中で切れず、膨らみまして、又も長くなりました。
誠にあいすみませんが、手の空かれた折にでも、飽きない程度に適当な所で区切るなどなさって頂き、皆様それぞれに良い塩梅でご覧下さい。
では記事へ。
《観察の逸材》
「人に歴史あり」とか言うが、本編7作と続編1作の計8作品からなる『ハリー・ポッター』の登場人物達も巻を重ねるごとに変化する。
殊に主人公であるハリーについては記述が多いので、その成長ぶりも分かり易い。
箒に乗って空を飛んだり、木の棒を振ってあれやこれやしたりする所がちょっと違うが、後は概ね知り合いの子が成長するのを見る感じで眺めていた。
「いや~、ポッターさんとこのハリー君、大きくなって~」
後半になるにつれ、そんな感慨も出て来る。同時に、
「わ~、苦労したんだね」
と、しみじみした。
映画版では一作を2~3時間程度にまとめる為、端折ったり変えたりもしているので、メッセージの濃度は下がるが「目にして初めて気づくこと」もある。
不覚ならではのすれ違いやすったもんだに「あるある~」とやりながら、そこから起きる戦いは、こんなにも激しく人を消耗させるものなのだろうかと驚いた。
ヴォルデモート効果で、ハリーのお肌がガッサガサ。
作品1から7でこんなに変わる。御神体そのものより気配が荒れている。
闇の魔術とか言うのが一体何をどうして出来上がってるのかは知らないが、とりあえず美容成分は含まれていない。
心身荒れつつの激闘を辛くも乗り越え、幾多の犠牲もありつつハリー達は悪を倒すことに成功し、本編はその後成人した彼らの姿を記して終わっている。
逞しい成長を遂げて真の大人になるとか、そんなスムーズな流れではなく、内面に幼さや愚かさ、迷いや弱さも幾分残している所が、「リアルな不覚の人」に近い感じがする。
経験値が増えても、内側の成長は中々進まない。
人類全体の投影と言うことなのか、これは主人公に顕著。
続編ではアラフォーのハリーが自分の息子にマジ切れして暴言を吐く爆笑シーンも出て来る。
一応申し上げると、これは宮司の反応で、作中では結構深刻な場面となる。
こちらは親としての言い方どうのより繰り返しの懲りなさに注目する。べからずではなく、体験のフレッシュさに意識を向けているからである。
全く以て、学びの多い作品であり、本題に入る前にこんなに色々申し上げることになった。
ようやく今週記事にて書かせて頂く「作品を通して炙り出された、不覚者が人生上で求めるもの」も、とても一回で終わる量で無かった。
書いている内にどんどん膨らむ。
魔法?
これはこの作品が持つ業がそれだけ深いことを示す。
今回は1つ、木曜に更に2つ、来年も月一ペースで幾つか書いてみる。
本日申し上げる「不覚が求めるもの」は、
1.解放感
「感」がついたのはあくまで“それっぽい感じ”なだけで、真の解放ではないからである。
真に解放が起きればエゴがエゴとして形を保てず崩壊する。そんなことは不覚者の殆どが歓迎しない。
解放“感”は一時の快感。痺れて終わったら元に戻って「もっかい!」と延々繰り返すことも出来るゲームである。
それには「抑圧と脱出」両方が必要なのだ。
両親を亡くしたハリーが引き取られていた、伯父の家が抑圧の舞台である。そこには母の姉である伯母と、彼ら夫婦が甘やかし放題にする従兄弟がいる。
伯母には妹とその夫である義弟、二人の間に産まれた甥を憎む理由があり、この家でハリーは徹底的に馬鹿にされ、虐げられ、邪魔者扱いされる。
そんな日々が一転、魔法と魔術に彩られた学び舎ホグワーツに、ハリーは入学を許可されたと伝えられる。それもかなり強引に。
シリーズ終盤に物語が悪との戦いメインになる前は、「ホグワーツと言う学校で、ハリー君が勉強、友情、恋、冒険etc盛り沢山の時間を過ごしましたとさ」で、それが終わってさて親戚の家に帰りましょうかとする所で終わっている。
つまり抑圧が起こる場所に戻る。
耐え切れずにこんな騒動も。
そして又そこを脱出する。抑圧があるから脱出があり、この繰り返しが解放感発生装置となり、闇の魔術との戦いが激化する前まで機能した。上手い作りだ。
鬱屈した日々から未知の場所へ飛び出す解放感は、不覚者の強く求めるものだが、そこには一味加えることが求められる。
先程書いた「強引に」と言うのがそのポイントである。
除け者、厄介者、馬鹿者扱いされて尊厳を踏みにじられて来た、と感じている人間にとって、そんな日常とは別世界の、そしてどうやらその中では権威があるらしい組織から、招かれると言うことは「大きな承認」となる。
素敵な場所と強引なお誘い。
これは不覚者が自尊心と呼ぶ気位を非常にくすぐることになる。
同時にこれまでの「冴えない惨めな自分」をチャラにする。
そして「強引に」は、裏を返せば「他力で」を意味する。
迎える側は、強引になる理由がある。この「理由」によって満たされるのが金曜記事でまず申し上げる2番目である。
作品をお読みに、又はご覧になったことがある方々は、一体それは何だろうかと意識を向けて見て頂きたい。
不覚の自らを観察することは真摯になさって来た方でも、不覚の人物を「客観的に・集中して」観察する機会はあまりない。
生身の人物だと、家族や恋人友人等じっくり眺められる相手には、大抵思い入れがある。
思い入れがないと言うことは、それだけ中立に観易いと言うことなのだが、ない者はそんなに長く観させて貰えない。あんまりじろじろ眺めると「何よ?」となるからだ。
架空の人物は、観放題である。
しかも、ハリー・ポッターはそんじょそこらのご都合編集された架空のキャラクターより遥かに不覚的矛盾に満ちている。
観察素材として、まさに逸材と言える。
年の瀬の用事の多い季節ではあるが手が空き、気が向かれたら、本作を未読の方も一作目の歓迎ムードから入学した辺りまでで結構なので、観察なさってみられることをお勧めする。
それは、この上ない進化のチャンスとなる。
2番目についてのヒント「今日明日お祝いするあの存在は、まさにそんな立ち位置」
(2019/12/24)
記事では殆ど触れませんでしたが、メリー・クリスマス。
祈りと祝いを味わう機会です。
素晴らしい時として、皆様が物理次元に虚空の富を記せます様に。