《空間を寿ぐ》
皆様は普段、どこからどこまでを「自ら」とお感じになられているだろうか。
現時点ではやはり御神体というカミさんのアウトラインで区切って、「その陣地内」を、「自ら」とお感じになられている方が多いかも知れない。
それもある意味正解なのだが、目が覚めると「自分」タグがついている御神体を動かしながら、その様子をもっと大きな「自ら」が俯瞰で観るようになる。
全母として、子である分神として、意識の視点が2つ出来るというか、表裏一体でどちら側からでも観ることが出来るような感覚である。
この自他を超えた状態を、仕事として自らの役割を果たす中で、実現している端末が居る。
と言っても、いつもいつもではない。
この端末ならではのキャラクター設定が重要視され、ある程度“彼の色”に染まっている状態で提供されることも多い。
宮司の観察では、この端末の活動としての白眉は「タモリ倶楽部」でも「ブラタモリ」でもなく「MUSIC STATION」。
ここでの振る舞いを観ていると、世間話に興じたり自分の話を持ち出したりしながらも、完全に「個として他にかける圧」を抜いている。
自らの所属する性別や、年齢や、立場を基にする「働きかけ」をタモリは他の端末に向けて一切しない。
「偉い人」や「有名人」「お金持ち」「老境に入った男性」などの立ち位置から「こんな俺、どう思う?」という圧を相手にかけてこないのである。
言外の賞賛も要求しないし、並み居るゲストから若さを吸い取ろうともしない。
いかがなものか的なアプローチもしないし、「先にどっちが格上かはっきりさせておこうじゃないか」的な牽制もない。
無論、誰にも媚びない。
このフラットなタモリ空間であるからこそ、音楽と言う無形の生き物が自由に出入りできる。
自由に響くし、自由に音にのれるし、緊張もしたければ自由に出来るし、勿論失敗も自由にできる。
タモリには、あらゆるものを「加工せずそのまま発生させる力」があると感じ、突然に気がついた。
多くの方が既にご存知かと思うが、タモリ氏は本名を森田一義と言う。
元々はモリタである存在が、ある時からタモリという「モリタの引っくり返し」のような名を名乗る。
その様を眺めてみて、
「タモリ」とは
「モリタではないもの」。
つまり「モリタ以外の全部」を表していることに気がついたのである。
図にすると、こう。
モリタであることを彼がやめた訳ではない。
モリタであると同時にタモリ。
これによって、空間から切り離された個人ではなく、個を含んだ可視空間全体として存在することを「モリタ兼タモリ」は実現したのだ。
モリ、タ、モリ、タ、モリ、タ、モリ…
無限化する。
全母の0と女神の13を添えた、花とおじさん。
即ち表の統合となり、そのことが裏側である全母からの完全バックアップを可能にする。
彼の番組がことごとく繁栄・長寿化することも、全く不思議ではない。
力ある偉い人だから存続した、というのは理由付けとして妥当ではない。
何故なら昭和から平成にかけて過ぎ去ったテレビ史を観察すると、一時代を築いた「偉い人」は沢山居たし、そしてそのあらかたが今、メインを張るかたちで残ってはいない。
「MUSIC STATION」でのタモリを観ていると「ミスター中庸」とでも呼びたくなる程である。
関わる相手に対しての期待がゼロ。
それが誰であろうとも。
褒めたり温かく遇するのはプラス、冷たく邪険にするのはマイナスの期待。
その針がどちらにも振れずに無を保っている。
もしかしたら不覚社会は週1ペースでとんでもない奇跡を目の当たりにしているのかも知れない。
全一からしたら当たり前だが、不覚社会でも極めて流れが速くまた華やかな業界で、この仕事ぶりは驚異と言える。
ついでに申し上げると、そんな彼のかつての看板番組「笑っていいとも!」が終了したのは、笑うことに許可がいらない時代が始まったからである。
不覚社会で日々の暮らしに明け暮れて、何かをする時には大抵「お伺い」が必要と言う体験を学んでいた頃。
そこから起こる苦闘や不自由、倦怠や苛立ちをみんなまとめて「笑っちゃっていいんだよ、笑っていいとも!」と休息をさせてくれていたのがこの番組。
だが、もう十分に体験を終え、不覚が覚へと変容を開始したので、いいともシステムもその役目を終えたのである。
あと、あれ「森田一義アワー」だったし。
モリタモリバランスが若干モリタ方向へ傾いていた。
誰のお墨付きも要らない、笑いたい時は自由に笑う。
そして笑いたくない時には別に笑わない。
そんな、あったり前の時代が既に到来している。
そこに、のるかそるかも
それぞれの自由。
有り難いことである。
空間から、空をも寿ぐ神。
(2017/3/13)