伯父の家に居候している時のハリー少年の食糧事情はかなり厳しい。
愛があるとは言えない提供で、それも監督者の機嫌によってしょっちゅう減らされる。
そんな環境から抜け出し、どうやら風向きが一気に変わって来たことを予感させるのが両親の遺した多額の遺産を、小鬼の銀行で見せられるシーン。
盛り沢山の金貨。
その中から少々を使って、魔法学校に必要なものを専門店街で準備する。
盛り沢山の魔法界の商品。
きれいなもの、不気味なもの、鍋や箒や杖など人間界にもあるがちょっと違った使い方をするもの、食べ物、生き物、何でもある。
十分な資金を持って、盛り沢山の界隈を歩く。
活字を追う疑似体験でも、おそらく大変に楽しいことだろう。
大人の目が届かない学校行の列車の中で思う存分お菓子を買って食べるシーンにも盛り沢山の楽しみは溢れている。
そして着いた先でのクラス分けを含めた入学式の後、大広間での晩餐も料理が盛り沢山。
メニューの描写はシンプルで分かり易く、10代が夢中で食べる様なものが多く書かれている。
読む者の年が幾つであれ「食欲旺盛な子供達が、豪勢な料理を賑やかに食べる光景」が不快だと言う人はまず居ないだろう。
読む快楽と言う点でこの作品の魅力を観察した時に、盛り沢山描写の上手さが、幅広い年齢層の読み手の心を捉え「つかみはOK
」状態に出来た理由の一つと分かった。
そして著者の盛り加減の上手さにも気がついた。
飽きる手前ギリギリまで、盛ってある。
幾ら素敵なメニュー目白押しでも、巻物に書き並べるみたいにダラダラ続いたら飽きるのである。
いい感じにブワッと盛って振る舞い、いい感じに皿を下げる。
これは、書き手のセンスと知性がものを言う。
大抵の書く人は、表現することに酔うし、流れの緩急も掴めない。
ちなみに巻を重ねるごとに「戦いの場で呑気に楽しく食べとる場合ではない」となったからか、食べ物を始めこうした盛り沢山で人を楽しませるシーンはどんどん減った。
描写が残酷で暗くなっただけでなく、盛り沢山がなくなったことも、部数が減少した理由ではないだろうか。
人は、沢山振る舞われたいのである。
健康上腹八分目が良いとどれだけ言われようとも、「程々に」ではワクワクしない。
目で食べる分には太らないので尚更。
食べ物に限ったことではなく、コツコツ働いて順当に得る収入の描写より、いきなりドカンと盛り沢山の金貨が見たい。
自分が買わなかったとしても、風変わりで面白そうな魔法グッズも「店頭にポツポツ並ぶ」のじゃなく、店から溢れる位どっさり見たいのだ。
この欲求の裏には「普段が盛り沢山ではない」状態が隠れていて、それには二つの意味がある。
人間として、今の立場で、出来ることに様々な制限がかかっていて、今どれだけ持っているに関係なく、物心両面で満足出来る豊かさからは遠いから、普段が盛り沢山じゃない。
それと、もう一つ。
この世にものは溢れているが、手に入れたり受け取って大喜び出来るものはそう多くないので、盛り沢山じゃない。
この盛り沢山じゃなさは、不覚社会に溢れるものの多くがエゴ付発想で作られていることと、受け取ったものを喜ぶ感性が麻痺していることで“支えられて”いる。
幼い頃から食にも愛にも飢えた状態で生きて来たハリー少年の姿は、飢えの感覚に晒され続けて来た不覚社会の人々に重なる部分がある。
重なる部分が、と書いたのは不覚の人々は「満足したら終わり!」と、自らでそれを遠ざけていたりもするからである。
いつか満足してもいいと思えるその日まで、飢えては盛り飢えては盛りを、繰り返して人生の舵をとろうと未練がましく頑張っている。
覚めてみると喜びが増え、澄み渡り、歓びが満ちて来る。
そうなってから目にする盛り沢山は、単なる愉快な描写で、それによって満たされた気がして起こる「痺れる」快感に繋がらない。
盛ってあろうがなかろうが、物理次元に起きているのは全て点滅する愛の輝きと、分かっているからである。
盛り上げなくとも、満ちている。
(2020/1/27)