情熱的に長くなりました。
誠にあいすみませんが、週末の空き時間を利用される等して頂き、各自いい塩梅でご覧下さい。
では記事へ。
《燃え上がる愛》
1並びの日付なのでワンネスについてか、鏡開きの話でも書くのかと思っていたが、そう言えばもうじき“どんど焼き”。
あわんとり、左義長、とんどさん、ほっけんぎょう。
各地で自由に呼ばれる、小正月に合わせてお焚き上げをする火祭の時期だ。
だからか本年は、燃え上がる情報がやって来た。
1986年リリース。
世間ではバブルが本格化し不覚の意識達が狂騒に走る一歩手前。
その中で一人、「やり切れない程退屈」で「淋しい」となる先見性に驚いた。
本日記事ではこの作品について読み解かせて頂く。
女から男へ向けて歌っている様な箇所があり、分割意識に対して御神体からのメッセージなのかと観察してみた。
だが、カミさんである御神体は亭主である分割意識に寄り添う間、一貫してビックリする程従順であり続けているので、こんなことは歌わない。
女から男へではなく「目覚めに向かう人型生命体」から「エゴ」に向けての詞なのだと気がついてから、すんなりと読み解けた。
目覚めに向かい始め、ぼんやりとだが気づく感覚が育ち始めた者は、エゴと居ても「やり切れない程退屈」になる。
エゴとお喋りする位なら「踊っていたい」。
無言で集中し全身で空間を味わっていたいのである。
「ガラスのディスコティック」。つまり、何をどう隠そうが、虚空からすれば全ては透けてお見通し。
それに気づいている。
本来の働きが出来ていない自他を「堕天使」と呼び、「愛の見えない時代の恋人達」とも呼ぶ。
愛が見えていないことを良く分かっている。
自身の現状を、極めて冷静に捉えている。
desire関係については後でまとめて読み解くとして、曲中において目覚めかけている端末は、エゴに対しても全くクールだ。
「腕を離してよ」とエゴの縋りつきをきっぱり断り、「キスをされるのもごめん」と偽りの求愛もばっさり切り離している。
既にそんな「気分じゃないの」だ。
だから「ヒールを脱ぎ捨て」られる。
元の身の丈より高さを増すヒールは、知識情報で固められた優越の象徴。
それを脱ぎ素足となって、「夜」に表される不覚の無明がいかに孤独で長いものか、向き合って感じられる程の強さが内側に育っている。
この長き孤独も本来は、全母である虚空がやってみたくて自ら設定したものであり、だから「多分ぜいたくな悩み」だと「分かっている」。
「何にこだわれば」とか「何を信じれば」とか、微かに残る不覚感覚に操作されて揺らぎつつも、世にドンパチとおかしな火花を発し続けている衝撃性を強調したニュースに対しては、「スキャンダルさえ時代のエクスタシーよ」と、そこまで気がついている。
真の自己が生み出されるヒッヒッフーも、いよいよ佳境に入った状態である。
さて、この歌で最も謎だったのがdesire。
タイトルの『DESIRE〜情熱〜』に、「desireって欲望とか欲求とか望みとかって習ったけど、情熱なんて意味もあったんだなぁ」と、確認の為に調べた。
だが、情熱と訳してある辞書は一つも見つからなかった。
「ん?」
そう言や情熱と聞いてすぐに思い浮かんだのはpassionだ。
ardor、devotion、flame…情熱に色々あれど、desireが情熱って話は聞かない。
欲望からの情熱。
これで気づきが来た。
情熱は欲望の昇華で起こる。
それは「もっともっと」と欲し続けて、望みを肥え太らせることではない。
欲望から手を離し、お焚き上げして解放することだ。
そもそもここで歌われているdesireって何なのだろうか。
曲中で挙げられる要素をざっと並べて見ると
まっさかさまに堕ち
炎のように燃え
ぶつかり合って廻り
星のかけらをつかむ
のがdesire。
訳が分からない。
当初はこの訳の分からなさで、「堕ちたり燃えたりは別の何かについてで、desire自体は挟まれる合いの手、
『ア〜、ヨイショ!』
みたいなかけ声なのだろうか?」と首をひねっていた。
だが、よくよく観察し、腑に落ちた。
「まっさかさまに堕ちる」ことでグラウンディングを手伝い、昇華されて「炎のように燃え」、欲望同士が「ぶつかり合って廻る」ことで勢いを増し、「星のかけら」と言う真実の欠片を「つかみ」取って気づきに変える。
desire(欲望)には変容の燃料としての役割がある。
炭坑から山程の石炭を集めても、巨大な油田を独り占めしても、そのまま放置では何の熱も生まない。
抱え込んだ欲望と自らを分けて、内側から意識の火をつけること。
その鍵が、何を得ても襲って来る「淋しい」である。
「淋しい」の手前に素晴らしく秀逸なフレーズがある。
恋もdanceほど夢中になれない
求愛や温情で寒さをしのいで来たのが不覚の歴史だが、恋とdanceをきっちり分け、おしくらまんじゅうのあったかさで埋め合わせをしないことだ。
明菜は外の誰かにハートに火をつけてとねだったりしていない。
ちゃんと「淋しい」を味わえる端末のみ、自立した大人に変容出来る。
真に愛を交わし合えるのは、自立した後になる。
歌詞の中には素敵なお知らせも盛り込まれている。
夢はそうよ見る前に
醒めてしまったら
何にもならない
一見残念フレーズで、明菜の声も嘆き節であるが、これは
不覚社会に垂れ流されているどんな人工の夢がそれぞれの意識にねじ込まれても、当の意識が醒めてさえいれば、それらは影響を及ぼさない。
と言う、頼もしい事実を表している。
全編通して深いメッセージに満ちた曲であり、最後にその力が結集している。
目覚めに向かって欲望を昇華し、堕ちるのも止まって着地して、そこで初めて起きるのが
内なる「Get up」の発動。
この爆発的エネルギーの発生は、「やり切れない」ものと決別し、孤独な夜の長さを感じきり、淋しさを味わいきった端末にしか起きない。
そして「起きること」である目覚めが、文字通り“起きる”。
燃え上がるハートである聖心が輝き、燃え上がる愛の力が湧き出す。
起き上がり、立ち上がり、真に進む時、悪魔の獄は既にない。
get upには出獄の意味もあるのだ。
起きてこそ、燃え上がる愛。
(2018/1/11)