秋分の日になりました。実践から様々な進化を実感された皆様、宮司もこの時期に大きな成長を頂くことが出来ました。それぞれの進化を、更なる進化の呼び水として、活かして参りましょう。
では記事へ。
《水を知る日》
色々と必要があった為、この所、ヘレン・ケラーについて調べていた。
伝記や芝居などで日本でもよく知られた、目が見えず耳も聞こえない少女ヘレンとサリバン先生の物語。
大抵はヘレンが、それまで彼女にとって“流れる何ものか”であった存在に「水」という名前があることを理解した喜びの場面をハイライトに、後年の大活躍を添えて締め括られている。
ヘレンは恩師アン・サリバンがケラー家に来た日のことを私の魂の誕生日と記している。
サリバンの方はヘレンに健康そのものでいじけた所がなく、活発で好奇心が強い印象を受けたようである。
ヘレンは師が彼女の元を訪れる前から、見えず聞こえない世界で嗅覚と触覚を駆使し、出来うる限りの情報を得ようと模索し格闘していた。
そして世界が彼女の努力に見合う成果を返さなかったと感じた時には、激しい癇癪を起こした。
両親が彼女の扱いに手を焼いたことだけで、アン・サリバンが呼び寄せられたわけではない。
ヘレンの叔母が、ヘレンはケラー家の誰より賢いから教育を受けた方が良いと、両親に勧めたこともきっかけになっている。
つまりヘレンは、周囲が動きたくなる程に、彼女の内なる“知る事への乾き”を、表現していたのだ。
ヘレンは身振りで沢山の身体語のようなものを作り、周囲とコミュニケーションを取ろうと努力した。
それは「父、母」といった対象から、「来て、行って」等の要求、「食べたい、飲みたい」等の欲求まで多岐にわたった。
アイスクリームを表す時には、かき回す動きをした後、震えて見せたという。
音の無い暗闇の世界に在って、それはどれ程もどかしく、また地道な努力を求められる道であったか。
彼女はそれを続けた。不貞腐れて寝転がっていたわけではないのだ。
ヘレン・ケラーの姿勢は、何処に在ってもベストを尽くすことは可能であること、そして渾身の問いにはそれに見合った答えがもたらされることを証明している。
だが、でっかく叫ぶことに終始し「こんなに頑張ってるのに!」と内心で腹を立てている者の何と多いことか。
渾身の時に、悠長に他に向かって腹を立てる余裕などない。あるとすれば、対象を決めない純粋な怒りだ。
それは真実を知りたいという衝動で、誰かや何かへの恨みは差し挟まれない。そんな湿っぽさは純粋な怒りの前には蒸散して消えてしまう。
興味深いことにアン・サリバンも、手術で回復するまでは殆ど視力のない状態にあったという。両親の庇護を得られず兄弟も失い、ひとり救貧院で暮らしていた少女は、視察に来た福祉関係者に歩み寄りその手を取って意志を伝えることで、自らの道を切り開いた。
運命を既に変えた者アン・サリバンを、その人生上に“発生”させたのが、運命を変えようとしていた者ヘレン・ケラーであったのは必然と言える。
二人は知らせる神であり、また知る神であったのだ。
出典 http://www.thka.jp/helen/life.html
見えず聞こえず話し難い状態を不覚の状態に置き換えてみた時に、変容に向かう時代にあって教師の役を担うメッセンジャー達が置かれた状況の、あまりの厳しさに愕然とする。
四方八方見渡す限り「見えないし聞こえないし話し難い」人々がわんさか居て、そこに向かって、未だ世間で認知されていない感覚を説明する。
その間にも、シフトチェンジにより不覚社会へ供給されるエネルギーはじわじわ減っている(だからこそ目覚めに向かう決心が定まるとも言えるのだが)
相当なムズさ(イメージです)。
2016は、世人の変容を手伝うマスター達が生まれる前段階、萌芽の時期と理解している。
当宮にご参拝下さる本気の皆様は、そうした様々なマスターとなられてゆくだろうし、教師の役割を持つ方々も居られる。
サリバン超えの状況ではあっても、あらゆるモノコトは虚空の後ろ盾の元に動いているので、この流れに逆らうことの方がゆくゆくは苦しくなる。それに全てのサリバン達に申し上げられることがある。
あなたがたのヘレン達は、
見えるようになるのだ。
聞こえるようになるのだ。
話せるようにだってなる。
水を知る日は、水と一体になる日だ。
そこを思えば何と、やりがいのある道だろうか。
思い当たる方は、その役割を受け入れられて、変容の礎としていただければと思う。
宮司にとって、そんな本気の皆様のお手伝いに力を注ぐのは当然のことであり、また喜びでもある。
例え、追加の発注だとしても。
宮司の本来の至事は新世界の観察者であり、どっちかって言うと静かにしているはずだったのが、いつの間にかこんなことになった。
こうまで至事の範囲が広がった背景には、当然それをしなかった連中の存在がある。
能力がないなら致し方もないが、引き受けなかっただけの連中に関しては、出会い次第そのケツを蹴り上げることを神仏に宣言して、至事に邁進している初秋の日々である。