《愛の味》
不覚社会では日々、成果なり主導権なりを求めて権謀術数を巡らす動きが横行している。
そのヤンヤヤンヤに意識を向けて居たある日、突然に気がついた。
「味覚の麻痺?」
様々なエネルギーへの飢えが止まない者達は「愛の感覚」、言ってみれば「愛の味」が分からないのではないのだろうか。
味が分からないから、目に見える形にしたくなる。
それを出来るだけ多く集めて飢えを満たしたくなる。
触れること、視ること、嗅ぐこと、聴くこと。
これらは全て、外で起きていることを知覚する動き。
只一つ、「味わうこと」だけが、外から丸ごと内に取り入れて発生する動きなのだ。
鼻が匂いを嗅ぐのを真似て、口を開けて対象が発する気配だけ吸い込んでも、その「美味しさ」は分からない。
舐めればすこしは分かった気になれる。
だが、舐めた真似のままでは決して分からない、咀嚼し飲み下して初めて分かる深い味わいがある。
愛も同じだ。
その深味が感じ取れなければ、表層のライフハックに走ったり、騙したり操ったりしてでも財や人気等の成果を積み上げたくなるのも、不思議ではない。
我欲とは、愛の不感とそこから起きる不安を覆い隠す為に、掻き集めて口いっぱい頬張る動きだ。
しかし全然飲み下せてないし、味わえてもいない。だから飢えは止まない。
虚空の富には「十」全の「未」知である「十未」と、それを「十」分に「味」わう「十味」の二つがある。
やはり味は重要な鍵なのだ。
勿論、全ては愛なので、愛で聴き、愛で触れることは出来る。
愛を込めれば嗅覚の嗅ぐは香ぐに、視覚の視るは観るに変わる。
だがその中でも、原初の愛の感覚に最も近いのは、味覚ではないか。
この気づきを元に、料理に関する情報に意識を向けて探索していた折、奇妙な符合を発見した。
「…何故、メガネ?」
「…何故、坊主?」
両方とも男性。
そしてどちらも声に甘さがなく、だみ声若しくは塩辛声気味。
調べてみると、彼らをそれぞれ主役に据えた料理番組が発生した時期も、幾分重なっている。
これは一体何のメッセージなのか。
程なくして気づきが来た。
メガネは「本来ではない視界で物事を見ている」状態と言える。
坊主は、元は妻帯しない存在であった僧に通じ、家庭と対極の存在。
子やぎ一匹騙せなさそうな、渋い声。
そして男であると言うこと。
つまり、全母から遠い要素満載なはずの存在による愛の表現。
万物は一体であり、形は違えど本来の質においては同じ。優劣など無い。
こんにゃく玉みたいに、よりツルッとした方のおじさんは、お料理しながら時折アシスタントのお姉ちゃん達にセクハラと言う、ゴキゲンな生臭振りも発揮して居られたそうで、どこまでも全母から遠い。
だからこそ、全体に捧げる愛を表すのに「向き不向き」は無いと言うことが、その働きによって証明されている。
ネオ坊主の“料理による説法”と言えなくもない。
番組で披露された料理方法は、様々な家庭で実践される。
家族と言う「特別な存在」から振る舞われたものであっても、そのアイディアの出所を辿れば、親戚にも中々居なさそうな「知らないおじさん」達。
愛とは境目なく巡るものである。
そして愛には潔さが自然と溢れる。
この男性がメインとなっていた料理番組のテーマ曲に、「洗ったばかりのテーブルクロス広げて」の歌詞がある。
「愛の味」は「恋の味」へと少々ズレたが、テーブルクロスが「洗ったばかり」なのは秀逸。
愛の表現は毎回まっさらなフィールドで行われるもの。
それが見事に表されている。
領域もまっさら、扱われる対象もまっさら。
素材も新鮮さが大切にされる。
「出来がいまいち」となった場合に新たな一皿を作って撮り直しは出来ても、料理そのものはどれも一回勝負。
一旦変化させた素材を、元の材料に戻してもう一度作ることは出来ない。
似た様に見えて実際は違う唯一無二のものを、愛を込めて作り、その仕事が終わったら速やかに
「スタジオにお返ししまーす」
となる。
これは料理に限らず、「毎日同じことばっかり」に見える生活の全てに対して言えることだ。
スタジオは、動の行である料理を、観察する意識の象徴。
惜しみなく動いて精一杯楽しんで作り、後は観察意識に任せる。
部分と全体、瞬間と永遠。
両方の素晴らしさが凝縮され、溢れ出る所に愛の醍醐味があるのだ。
天意からの愛、振る舞う神々。
(2017/10/12)