切るに切れず、週明けから結構な長文となりました。
誠にあいすみませんが、飽きない程度に適当な所で区切る等されて、皆様それぞれに丁度の感じでご覧下さい。
木曜はなるたけあっさり仕上げます。
では記事へ。
《愛と都合》
余裕で逃げ切るつもりが少しずつ追い詰められ、ストレスが増したフレミング先生。
検事局のお偉いさんである友達を使って働きかけ、コロンボを捜査の担当から外そうとする。
するとコロンボはクリニックへやって来て、疑り深さが異常な患者として診て貰いたいと言い出す。
フレミングは鬱陶しいと思いながら次第にこのしつこい刑事に対して、興味を示し始める。
「誰にも自慢することが出来ない、
自身の能力を総動員して成し遂げた殺人と言う“大仕事”。
その困難さと複雑さを理解できる唯一の相手」
がコロンボな訳で、この件で自分を称えたいと思ったらコロンボのことを認めるしかないのだ。
それを知っているコロンボは、犯人と張り合ったりせずに、相手の知性を認める態度で接し続ける。
フレミングは自尊心をくすぐられ、自らの賢さを確かめ誇ることから離れられなくなる。
そこに隙が生まれる。
一方で、別の騒動が持ち上がる。
コロンボは共犯者に狙いを定めて揺さぶりをかけ始め、以前から精神的に不安定な彼女はそれに耐えられなくなって来る。
どちらもえらい顔。
犯人にとっては従順で使い捨て出来る手足だと思っていた、共犯者もである愛人。
彼女は昼間は徹底的に追い詰めるとコロンボに宣言され、夜になっても自宅の外でずっと刑事が見張っているせいで不安に駆られてと散々な一日を過ごす。
会いに来て欲しいと電話で懇願する彼女に、フレミングは怪しまれない様に一日待てとして応じなかった。
翌朝、彼女が精神的に追い詰められた末、睡眠薬を多量摂取し自宅のプールで溺れて亡くなったと知って現場に出向くフレミング。
愛人が死んだとプールサイドから目視で確認した先生は、妻同様に愛人も、別に愛しちゃいない利用しただけの替えの利く存在だと、コロンボに平気で話す。
自分をしつこく追い詰めて来た刑事が、共犯者の死によってこの事件は完全犯罪になったと敗北宣言をしたからである。
そのことで、安堵と勝利の興奮が一気に押し寄せたのだ。
ぺらぺらと喋る彼の目の前に、死んだはずの愛人が現れる。
そこで彼はさっき見た、ストレッチャーに乗せられて運ばれて行く水着の女が、実は彼女ではなかったことに気づく。
それはまさに、「人は固定観念によって物を見る。つまり別人でもそれを着ていれば、服の持ち主本人に見える」と言う、彼が殺人計画に利用した錯覚だった。
彼は妻が本当に死んでいたかも見分けられなかったし、死んでいるのが本当に愛人なのかも見分けられなかった。
長年、人の精神行動を観察する仕事をしていても、人そのものを丸ごと観ることが出来ていない。
隣に置く女も何度取り換えようと、深くは分からないし分かる気もない。
大体それらしい魅力のある存在が、適当に居りゃいいだけだからである。
大事なのは、常に自分。
これは人型生命体の中で男性性を担当する分割意識の、御神体についての理解の浅さと集中の甘さ、軽んじる態度に重なる。
大事なのは常に、自・分割意識。
策士策に溺れるの見本みたいにいらんこと喋って自爆した先生はラストシーンで、奥に居るコロンボが共犯者から話を聞く様子を背に感じながら、煙草を取り出して火をつける。
ここまで来たら一服しないと平静を保てないのだろう。
それ位の動揺があることが、仕草だけで無言のうちに伝わる。
観終わってまず浮かんだのが「コロンボや見張りをしていた他の刑事はどうやって共犯者を自らの協力者に変えたのだろう」と言うことだった。
一晩の間に一体何が起きたのだろうか。
彼の愛を疑い始めた彼女に、確かめる方法として一芝居打つことを提案したのだろうか。
その経緯は分からないが、愛人も愛せない傲慢な男の妻殺しと言う利己的な犯罪を、愛妻家の刑事が明らかにすると言う秀逸な内容に改めて唸った。
そして不覚社会では当たり前に使われている、覚からすれば最も不自然かつ珍妙なワードの一つである「愛人」が、そこかしこに散りばめられているのも学びになった。
「愛人」の語を眺めてみると、伴侶にする程ではない浮気相手に対して、籍が入れらんない埋め合わせの名誉みたいな感じで「愛」の字が付けられている。
「恋人」には、将来的に籍が入るかも知れないと言う、希望みたいなのが見受けられる。
「恋みたいに浮足立っていないしっとりとしたオトナの関係だから、愛なのさ」とでも不覚の人々は言うかも知れないが、「都合のいい関係」を「愛ある関係」と言えるだろうか。
でも「都合人」と呼ぶなら、そうなろうとする女や男など居ないかも知れない。
都合は愛を騙りたがるが、
愛は都合を必要としない。
『殺人処方箋』では、「愛人と言っても愛しているとも愛されているとも限らない。大概が個人的都合によって好み好まれている程度」と言う、当たり前なことが明らかになっている。
好み好まれる程度ではまたフワフワと浮気に走り、愛が生み出す様な集中が起きない。
コロンボは、かみさんが倒れてたら思わず駆け寄るだろうし、そうすれば自然とかみさん本人であるかどうかちゃんと分かる。
妻に愛で向き合う男だからこそ、
仕事に対する集中力も発揮されるのだ。
刑事ものには仲間達と協力して捜査に向かう話も多くあるが、コロンボには理解ある上司や手伝ってくれる同僚は居ても、チームの一員として活動する展開はない。
常に、見えざるかみさんと行動。
コロンボの対決する犯人は大概が社会で上流階級に位置しており、一般庶民とは段違いの暮らしぶりを見せて来る。
そんな相手の家や別荘、仕事場を訪ねても、口であれこれ言ったとして実際に気後れしたり圧倒されたりしないのは、彼がかみさんの話を出す度に、中立になるからである。
ふいにかみさんの話を挟むと相手は気を緩めて、戦いじみた空気にならなくなると言うのもある。
並の男なら、自分よりずっと金のかかった感じの生活をする犯人と比べて引け目を感じたり、妬んで拗ねたり、取り入ろうとしたり、逆に馬鹿にしてみたりと、色々忙しくするだろう。
そんなことに気が散ってたら、コロンボみたいな捜査は出来ない。
大抵の人が見落としてしまう僅かな綻びにも気がつき、半端な姿勢では腰が引けたり諦めてしまう様な仕事を粘り強く行うからコロンボ仕事は面白い。
その仕事を支える根気は、彼の中で男性性と女性性が調和していればこそ生まれる。
表で働く男の言葉の奥から、かみさんはやって来る。
まさに、内助の功と言える。
夫婦で晴らす、浮世の霧。
(2020/5/25)