《思う神》
思うについてえっさほいさと掘り下げていた宮司。
あれやこれやする内に、日本最古の書物と言われる古事記に行き当たった。
そして、懐かしの神事を発案したらしき神をそこから掘り出した。
「は~、そうだオモイカネだったわ」
古事記で思金神、常世思金神と記されるこの存在は、日本書紀では金を兼に変えて、思兼神と書かれる。
後代の書物では思金神、常世思金神、思兼神とどっちも採用、更には八意思兼神、八意思金神と色んなアレンジ表記をされているそうである。
川の流れみたいにどんどん支流が出来て分かれて行く。
後からくっついた八意の「八」を八百万の様に数多くの、「意」をそれぞれの意見や意志とすると、皆の意を取りまとめて実行へと導く舵取りの神を意味すると言えるだろう。
何で又「こころ」と読ませているのかはさておきこの「意」について、「思慮」の意味だとする解説を見つけて首を傾げた。
そうなると思金神の名に元々付いている思と、思慮の字の中の二つの思とで、三重になるんじゃないだろうか。
頭痛の痛みが痛過ぎる位の、念の入れ方である。重要なことだから二度も三度も繰り返しますよと言うことなのか。
そう言えば「思い」の後には、「返し」たり「巡らし」たり「あぐね」たりと、幾度も重ねる表現を続けることが多い。
慮も訓読みでは「おもんぱかる」となり、こちらにも「あれこれと思い巡らす。思い。考え」の意味がある。
あれこれと思い巡らした上での配慮が神采配と言うことらしい。
思の後に付く「金」を「兼」としたことで、オモイカネは「多くの思慮を兼ね備えていること」の意味に変化した。
この時に、皆の思いを汲んで精錬し実行に変える“錬金”の意味から、この神が兼ね備える多くの思慮を皆に向けることで答を導き出すと言う意味に、流れが変わった様に感じる。
色んな長所を兼ね備えている方が有能で優れていると言う、世の人が抱える価値観が反映されている。
まぁ、その前バージョンにしたって「金、だーい好き!」みたいな発想かも知れないが。
人間の価値観や思惑が混ざっていようが、虚空の意志は文字や伝承の中に表れる。
本気で書かれたものであれば。
オモイカネは岩戸隠れが起きた際に、集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出す知恵を授けたとされている。
国譲りでは葦原中国に派遣する神の選定を行い、その後の天孫降臨で邇邇芸命に随伴したらしい。
「企画部から神事部に異動して後に転勤か」
古事記や日本書紀に登場する神々は割りかし、世の人の会社人生にも通じるものがあるルートで神生を送っていたりする。
何だってこうしたことを書いたかと言えば、人が思うに夢中な理由の一つとして、「古さ」並びにそれ故の「根深さ」があると気づいたからである。
同時に、思う本来のはたらきをオモイカネの仕事から垣間見ることも出来た。
普く照らす光、アマテラスを世に現すことが出来る様に実行の道を示す。
そこに個を超えた全なる思の在り方についてのヒントがあるのだ。
次回、お仕事拝見。
(2022/4/18)