《念力珍作戦》
ルパン三世の実写版映画で、そんなタイトルの作品がある。
世間に浸透しているオシャレルパンやロマンティックルパンではなく、主演のルパン三世役に目黒祐樹。ちなみに次元は田中邦衛。
何がしたかったのだろうか。
当時のルパンニーズの謎に思いを馳せても仕方がないので本題に入る。
「力が欲しいか?ならばくれてやろう」的なファンタジー展開だけでなく、日常に様々入り乱れるエゴ合戦の中で、人は皆それぞれに何かしらの力を欲している。
変容の時代に入った為、目に見えない力や超自然的な力に不覚社会全体の興味が集まり始めた。
だがその多くは、変容の為ではなく「他者に抜きん出る為の手段」にしようという思いを興味の源としている。
映画やドラマ等にもそうした力について取り上げた作品が増え始め、「良く分かんないけど、何とかしなくっちゃ」という意識達の声を感じる。
ちなみに「ヒーローもの」が急に増えたのも「良く分かんないけど助けて・助けさせて下さい」という意識の動きからである。
そんな中、2015年に始まった『念力家族』というドラマがある。
カッコいいヒーローものや胸ときめく恋愛ものと一線を画す、リアルな念力が生活の随所に現われる日常密着型念力ドラマだ。
家族全員が念力を使う念力家(ねんりきけ)の人々は、「念力が使える特別な存在」という恩恵をさして受けていない。
世間に誇るでもなく、優位に立って支配するでもなく、逆に、便利なはずの念力に本人達が翻弄されたりする。
念力を使えても、解決しないことは山のようにある。
切ない想いで好きな人を部屋の壁に念写する。
このドラマが見せてくれるのは、「人は何がしかの能力で満たされるものではない」という真理だ。
念力が使えたら、神通力を授かったら、もっと魅力があったら、あの能力やこの能力が身に付いたら、人は満たされ完成する、ものではない。
人間とはそれ自体では完成しない作品である。
それを逆手に取って、「だからいいのだ」と不覚社会は開き直って、変容という火入れをせずにずっとろくろの上で「人間像」をこねくり回して来た。
しかし、文様が派手になっただけで、内容はさっぱり深まっていない。
特別な存在を設定して
「いや、マジで助けて下さい」もしくは「助けてあげる」に行くか。
特別とされる存在を中立に観て
「うん、特別って時点で完璧じゃないよね」に行くか。
完璧の「璧」はマルッとした玉のことであり、全方位均一に力が満ちている故に玉と成れている。
次の瞬間にどの能力が開かれるかさっぱり分からない、自由な状態が完璧である。
俗に素敵とされるものであっても、どっか一カ所が突出し続けている時点で、完璧ではないのだ。
そのことに気づかせてくれるメッセージも、こうして世に出て来ている。
「特別な能力なんかあったって人は幸せにはならない」というメッセージは案外と昔から刷り込まれて来た。
これはこっそりと本当に「念力」を使ってその他大勢のエネルギーを吸い上げて来たごく一部からの洗脳操作だ。
だがそろそろ支配者被支配者全員が認める時に来ている。
念力そのものが本来不必要な能力であることを。
『念力家族』は、支配者側からの洗脳操作として「念力故に物事が破綻する」こともないし、「念力が特別である」ことすら超えている。
何しろ家族全員が使えるのだ、家族と言うコミュニティー内では念力は平凡化している。
テレパシーで会話中。
平凡化は中庸化に通じる。
そのことが何より新しく感じる。
念力を面白がりながらその根底で、念力と言う存在そのものの意義を「バッサリ行っちゃってる」ドラマ『念力家族』。
つい先日、電車の中からポスターを見かけてその存在を知ったのだが、ひっそりとシーズン2に入っているらしい。
ありがたいことだ。
非凡を平凡にする神々。
(2016/6/20)