削るに削れず、何とも長くなりました。
相済みませんが、飽きない程度に区切る等なされて、皆様それぞれに程良いペースでご覧下さい。
では記事へ。
《心中ブーム》
この表題、前からちょくちょく上に言われていた。
だが、不覚時代から負の美学に対して冷淡だった宮司。
目が覚めてノリが更に軽くなったこともあり
「わ〜、それ重いわ〜。てか発信することで「そっち方向に」傾いちゃわない?ご免ですよ、そんな鬱陶しいもの予言化するの」
と、無視を決め込んでいた。
しかし、宮司の動向に関わらずじわじわと増えて来た、国内外での大小様々なドンパチのオンパレードをニュースでざーっと眺め、
「あっこれ言っても言わんでも、起こるもんは起こるな」
と、腑に落ちた。
起こるもんは起こる。
それは放っといていいとして、当宮にご参拝下さるものの分かった皆様が、そうしたドンパチの喧しさに意識を向けて横道に入って行く必要はないのよと言うことを、上は言いたかった様である。
そんな訳で、本日記事で書かせて頂くこととする。
2017から300年ちょい前の1703。
時は元禄16年、大阪で生まれ一世を風靡した心中物語があった。
醤油屋の手代徳兵衛と天満屋の遊女お初は相思相愛の仲。
ところが徳兵衛の実直を見込んだ店の主人である叔父が、店を始める資金となる持参金付きで、親類の娘との縁談を持って来た。
「働く男」としてはビッグチャンスであり、ハッピーこの上ない知らせなのだが、「恋する男」には邪魔でしかない提案。
徳兵衛の中では俄然、
働く男<恋する男
だった為、叔父の提案をぶっちぎる。
叔父も叔父で、甥っ子と遊女の恋を知っており、「如何なものか」と手を切らせる意味でもこの話を立ち上げており、徳兵衛が断れなくなる様に、彼に内緒で実家の母親に既に持参金を握らせておくと言う念の入れ様。
只、母は母でもこれが徳兵衛と仲の悪い「継母」だったので、叔父への不義理の気まずさを取っ払って逆ギレし『絶対、こんな縁談嫌じゃ!』と拒絶するパワーを生んだ。
この後、強欲な継母から何とか取り返した持参金を又「親友と思っていた男」に裏切られて失ったり、全体通じて
「もうこれ死んでも仕方ないよね。こうなっちゃったら死ぬっきゃないよね」と観衆を納得させる要素が沢山振る舞われる。
そりゃそうだ、元禄の世でもどこでも死はアンハッピーなものであり、「命は大事に」が基本。
そうでなきゃ人類はとっくに滅んでいる。
異常事態な心中を「何か納得しちゃう」方向に持って行くには、相応のドラマが要るのだ。
積み上げられた説得材料を支えに、徳兵衛お初は曾根崎にある天神の森で心中する。
資料に目を通し終えてふと、「醤油屋の手代と遊女が、正々堂々晴れて結ばれるパーセンテージって幾つ位だ?」と思った。
当時の背景、それぞれの立場等を鑑みて、限りなく0に近いのではないだろうか。
正攻法ではまず結ばれない。
それを分かっていたから、迷いなく禁じ手に進めたと言える。
そして今生で結ばれないなら来世で、と期待を未来に向け、しかも「恋の手本」になろうとしている。
今回の命で次回の命をハッピー付きで購おうとする。
そして誰かの手本になりたいと言う名誉欲もある。
結構、野心家なのだ。
眺めてみて、いっそ見事だなぁと感じたのは、
結局全員が自身の思惑でしか生きていない
こと。
徳兵衛→惚れた女と離れたくない
お初→惚れた男と離れたくない
叔父→よく働く甥っ子をさらに身内に取り込みたい
継母→くれるお金ならそれで誰が困ろうとも欲しい
九平次→手に入るお金ならそれで誰が困ろうとも欲しい
一人として、全体のことなんて思いもかけないし、ふとした拍子に全体性を感じ取ることもない。
全員が自分にだけフォーカスする『ド近眼』状態になっている。
そしてそれが不覚の「当たり前」である。そりゃ死にもしますわ。
身勝手で、幼く、愚かで、狂っている。
だが近松門左衛門の筆は、そんな有り様の中にも宿る美を描き出している。
“この世のなごり 夜もなごり
死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜
一足づつに消えて行く
夢の夢こそあはれなれ”
恋の道行きで、これ程に美しい調べを知らない。
歪みや滑稽さも呑み込んで、その底に輝くものがある。
この美しさが宿った理由が二つある。
一つには、これは様々な面でNEWな体験だったからである。
『曾根崎心中』は近松門左衛門が世に出した、世話浄瑠璃と呼ばれる新ジャンルの作品。
世話物とは一般人の恋愛や風俗を描くもの。彼は歌舞伎の仕事で、この世話物を扱っていた。
近松が作劇家としてのキャリアをスタートさせたのは曽我兄弟敵討を題材にした時代物の浄瑠璃。
「時代物の浄瑠璃」→「世話物の歌舞伎」→「世話物の浄瑠璃」で、一周回って帰って来た感じ。
とは言え、『曾根崎心中』の様な浄瑠璃は近松も書いたことがなかったし、世間も観たことがなかった。
加えてこの作品は当時話題になっていた実在の心中事件をモデルにして、驚くべきスピードで具現化されている。
事件が起きたのが4月7日、依頼を受けて台本を書き稽古して幕を上げたのが、5月7日。
そのNEWさ加減に観衆は驚き、又、神話や歴史上の存在ではない市井の民も、人に注目されるドラマの主人公になり得ることにも驚いた。
士農工商の決まりきった予定調和に内心で飽きながら、そうは言っても他の道など見つからない元禄の意識達に、心中がもたらす解放と、悲劇の衝撃はクリーンヒットしたのである。
近松の書いた「お話」は、その後20年程の間に多くの実際の心中を生んだ。
しまいにゃ殿様が「心中は、『忠』を割っている行いだからいかんよ」とたしなめるお触れを出すことにまでなった。
だが、収束には更に時を要したと言う。
ゴールドラッシュに湧く様に、不覚社会は「鬱屈した状況を打破する力を持つ」と感じたものに縋って後追いし、同じ方へなだれ込む性質がある。
たとえそれが心中であっても。
それは2017も全く同じことである。
中心に居られない時
心中することになる
幕府サイドに都合のいい「忠」なんか持ち出さずに、この重要な事実を説明しときゃ十分なのだが、殿様目線ではそうした真実には行き当たらないことが分かる。
元禄に限らず、こうした心中ブームは世界各所様々な時代に巻き起こって来た。
死を選ばない大多数の人々も、「人工的な予定調和から逃げ出す一部」の死によって自身の生を実感し、気休めにして来たのだ。
だがお察しの通り、心中で何かが解決することはないし、徒花としての美しさも近松地点で完成されている。
フィクションノンフィクション関わらず、悲劇的な事象がこれ見よがしに目前に現れても、「近松越え、してるかな?」の確認をしていただければ、色褪せた焼き直しが積み重なっているだけとお分かりになられると思う。
『曾根崎心中』は筋立てとしては単純で、面白味に欠けると言われることもある。
が、今に至るまでその人気は衰えない。
当宮では、その理由を「曾根崎心中が、書かれるべくして書かれた物語だったから」と読み解いている。
古巣である人形浄瑠璃で、新しいジャンルを切り開く本作を書いた当時、近松は51歳。
元禄の世では、隠居してもいい年と言える。
ヤングではない上に、当たり前だが近松は醤油屋の手代ではない。遊女でもない。
自身と全くリンクしない、20やそこらの男女の心情を観衆の心を抉る程、ありありと描きながら、彼らにも他の登場人物にも、誰に対しても一切の肩入れをしていない。同時に一切の批判もしていない。
トラブルメーカーの九平次も、特段懲らしめられることなく、さっさと他の遊女屋へ繰り出させている。
近松は完全に自身を透明化し、只、虚空に浮かぶ2つの目になって、ことの成り行きを描いている。
これが曾根崎心中に稀なる美しさが宿ったもう一つの理由である。
彼は虚空として、この物語を観察して描いたのだ。
時には愚かしく、身勝手で、どうしようもない。
そんな物理次元の様々を、惜しみなく全母である虚空が支えてくれている。
人形遣いを含めた人形浄瑠璃の光景は、その真実が表されたものである。
人形遣いは一人では出来ない。頭と右手、左手、足、それぞれに徹する者が居る。
彼らは部分に徹することで、個の思惑を手放す。
個の思惑から離れた者達が極限の集中をすることによって、実在の人間より滑らかで美しいと感じられる程の、文楽の人形の動きが実現する。
観衆はそこに、「見えないはずの虚空」を見出す。その歓びを含めて、人形浄瑠璃を楽しんでいるのだ。
個の視点では見えない“誰でもないものがたり”の道筋、「文」脈を「楽」しむので、文楽である。
近松が歌舞伎の世界を回遊し、沢山のお土産を手に、人形浄瑠璃の世界に引き戻されたことも、起こるべくして起きたことと感じている。
こうした「そん時ゃそれがベストだったよね!」な美しさを発見し、しみじみ味わい感謝するのが2017周りの本来の仕事なのだ。
問いは出揃い、既に楽しい答え合わせの時代に入っている。
未だにお手製のクイズ作りに興じている場合ではないのだが、不覚に未練が残る人々は「燃やせるものは何でも燃やせ!」とエネルギー確保の為に自身を火に焼べようとしたりする。
破壊に真の新しさはない。
グッドセンスな皆様におかれましては、心中ブームの喧噪を目にされても
「それ何週目!?」
の冷静な指摘に留め、構われないこと。
心中界、既に頭打ち。
付いて回った所で、進化も変容もない界隈である。
焼き直しに興じる者達をも含めた全体の進化発展を意宣って、前人未到の真新しい歓びの味わいに集中されることが肝要。
以前、引いた神籤に
『もし、真の自由を求めようとするならば、心中の奴隷をとりのけることから、はじめねばならぬ。』
という、ぐっと来る言葉があった。
「しんちゅう」に奴隷が居座ったままで自由を望む時、「しんじゅう」という逃避行為を招く。
奴隷ではなく、虚空の分割意識、全母の子としての自らを中心に据えること。
中心にあれば
心中は起きない。
そのことを、自ら心中の最高峰をマークしつつ『曾根崎心中』は教えてくれているのである。
中心で心中を描く神。
(2017/6/8)