削るに削れず、結構な長さとなりました。

 

あいすみませんが飽きた所で区切られるか、週末の手の空かれた折にまとめるなどされて、良い塩梅にしてご覧下さい。

 

休み明けの記事は、なるたけあっさりと仕上げます。

 

では記事へ。

 

 

《屁のような人生》


これまで様々な記事でお伝えして来た通り、不覚状態で行う創作でも、

個の意図を超える、全一のメッセージ宿る作品

を生むことがある。

文学、音楽、舞台、映画、アニメーション。漫画にもそれは起こる。

只、どれも大体は一作者や一団体につき、覚醒の一瞥の様な作品が一つ二つ生まれるにとどまる。

 

 

個人が‟天の恵”めいた作品を生み続けようとして試行錯誤の念力や酒や薬等に頼った例もあるが、どれも心身を壊す結果に。


目を覚まさずに目覚めのペース舞う、それも半世紀以上振る舞い続けるには、莫大なエネルギーを必要とするはずである。

まさかそんなことが出来た者がいるとは思いもしなかったのだが、ある時

「そう言えば、
 あの存在って
 何だろう?」

 

と、気がついた。

祭のテーマにが転がり込んでくる前のことである。

この端末の生む作品に興味が出て観察してみると只々、摩訶不思議

ついには漫画家なのかどうかも良く分からなくなった

確かに漫画家でもあるのだが、その前に

 


「て言うか、画家じゃん」

その位、お話関係なく絵に力がある

点と線とで描いた、別世界の入り口の様にありありとした世界

その中に、ペラッペラのシンプルな描き方でキャラクターがポンと入っていて、それはしばしば「現実世界のどこにでも居そうな人物」であったりする。

 

これは妖怪もペラッペラ。


じっと見ていると、周囲に描かれた異様に精緻かつ奇妙な世界の方が実は本当で、ペラッペラに簡素化された人物が象徴する現実が虚構なのではと、混乱するかも知れない。

少なくとも作者は

「不可思議に遭遇する平凡な人物の視点」

「人物を取り巻く奇妙な世界側からの視点」

この両方から同時に作品を描いていたのではないかと感じる。


妖怪達は精緻と簡素を自在に行き来している。

 

だから人との交流が出来るのだろう。

「画家じゃん」の前に、口をついて出た感想がある。それが「お囃子じゃん」だった。

祭囃子は世に様々溢れ返る音楽と違い、喜怒哀楽どの感情も超えて、それでいて踊り出したくなる様な魅力を持っている。

水木作品は物語から切り離して「絵」として観ると、戦争を描いたものすら「観るお囃子」の様に響いて来る

 

 

何が響いて来るのかを言葉にするのは難しいが、敢えて言うなら「生きることの不思議さと素晴らしさ」とでもなるだろうか。

生きることの不思議さと素晴らしさ、その驚き歓びを見えざるものに捧げている。

そこも全く、お囃子と同じである。

こんなことが、不覚の人に可能なのだろうか。

作品から入って、作者の人生についても調べようとして、面白い資料を発見した。

 

 

鬼籍に入る数年前に生誕八十八才を記念して出されたこの本の、まずタイトルにビックリし、そして中身を読み終えて唸った。

全く、驚くべき人生と言える。

情報が多いので、印象深い点をかいつまんで並べてみる。

マイペース。健啖家。見えざる存在との縁。学校では劣等生。絵は早熟の天才。収集癖。徴兵と出征。左腕を失う。帰還。色んな学校職場を転々。アパートの大家に。店子切っ掛けで再び絵の道に。紙芝居から漫画へ。結婚。二児の父に。売れない時代の貧乏。売れてからの激務。

食う為に取り組み始めた画業を半世紀以上。

 

描いて描いて描きまくり、

気がついたら業界で唯一無二の存在に。

 

 

ドラマや映画にもなったが、映画なんてこんな人生をどうやって切り取ったり数時間にまとめたり出来たのやら想像もつかない。

生涯を通し多くの人が滅多にしないような経験で溢れており、画業だけでも大変な仕事の量、しかもを伴っている。

この職業の常でアシスタントと呼ばれる、絵を描くサポートをする方々を雇用して制作した部分もあるが、そこを含めても物凄い。

複数の手が入ることで中立さに磨きがかかっているのを感じ、中心になったこの存在が芸術家であると同時に優れた親方でもあったのだろうと納得した。

「しげる検定」があるなら受けられそうな程、他の資料も併せて読み込んだが、余りの情報量に途中でクラクラして来た。

 

 

「こんな濃さの人生が、?」

は、確かにこの存在を知る上で欠かすことの出来ない要素ではある。

だが、己が人生をまるっと総まくりして認定」出来る者って、そう居るだろうか。

単なる謙遜を超えた、清々しい達観を感じる。

 

 

清々しさを感じる日が来るとは夢にも思わなかったが、そんなことも起こるから物理次元は面白い。

途方もない質と量の体験に満ちた人生が、屁の如き軽さも持っているとは自由そのもの。

理屈を言うな」
はすれども姿は見えず ほんにお前はのような」

等、他へ言う時には良い意味で使われない。

が、良い悪いの前に、気体

 

 

(くう)から一瞬現われて、また溶けて行く存在として、しかも

 

「な~んでもないもの」

 

として、承知で自らについてを言うのなら、洗練された例えもないかも知れない。

に対し洗練を言うとは、思ってもみなかった。

 

再びの驚きである。

 

飾らないにも程がある。 

 

個の意図を超える、全一のメッセージ宿る作品

については、割合先に目を覚ましたこともあってこれまで幾つも発掘出来ている。しかし、

個の意図を超える、全一のメッセージ宿る人生

を発掘出来たのは、もしかしたら初めてではないだろうか。

実に有難いことと、心底より感謝している。

 

見えないが、見事な屁。

(2019/8/16)