重要な部分が多く切るに切れず、どうにも長くなりました。
週明けからあいすみませんが、適度の調節で飽きない程度になさってご覧下さい。
では記事へ。
《孤独の果て》
「わ~、やっぱこれ話長くなる感じか」
食事をしながら観ていた映画に、そんなコメントが浮かんだ。
何しろ、情報が多い。
多いし全体一つの“ここ”から観ると情報同士が大変にとっ散らかって、しかも入り組んでいる。
そうだこれが不覚の複雑さだ、と納得した。
同時にその複雑さの「元になったもの」とは何かを理解し、それこそ上が本作を観ることを提示した理由だと気づいた。
元になるもの、
とは孤独である。
『ボヘミアン・ラプソディ』をご存じない方にざっくりとご説明申し上げる。
クイーンと言うバンドの1970年代から80年代にかけての活動を、そのフロントマンであるフレディ・マーキュリーの人生をメインに追いかけて描いた映画。
バンドを結成し、才能が認められ脚光を浴び、有名になったことで巻き起こるあれやこれやに翻弄され、ドカンと喧嘩したり、家出したり、仲直りしたり、紆余曲折あって、マーキュリーがエイズに罹患した後に、病を押して行われた素晴らしいライブで映画は幕を閉じる。
多くの人が感動した名作も、思い入れや情や共感抜きに書くと、こんなにあっさりとした説明が出来上がる。
2018に公開され全世界で大層ヒットした本作。
映画館に何度も足を運ぶファンも居る、社会現象化した様子を眺めていて、10年前にヒットした『マイケル・ジャクソンTHIS IS IT 』を思い出した。
マイケルはいきなり世を去って皆をびっくりさせたその年の映画公開。
フレディは去ってしばらく経ってから伝記映画となっての公開だが、どちらも映画を観て「ああ、この後しばらくして世を去るんだよね…」の感慨付きで感動する点が同じ。
観る人は映画の中の「彼ら」自身も知らない「彼ら」の来し方行く末を知って、全てひっくるめて感動が出来る。
嬉しいことでも悲しいことでも丸ごと観察して祝福する、人型生命体の観察者としての歓びを全うさせてくれるのが、二作品に共通する有難みである。
マイケルを観察すると孤独の要素がついて回るのが常だが、今回フレディと言う存在を観察して、彼の内にも深い孤独を発見した。
遠巻きに映画のヒットを見ていた頃から勘づいていたが、近寄って覗き込んでみると「わ~」としか言い様のない孤独ぶりである。
だから、劇場に観に行かなかったんだなぁと理解した。
どうにもノリの重いものと波長が合わない。
しかし度重なる“お知らせ”もあり、余程必要であるのだと納得してフレディに意識を集中してみた。
見えたのが、マイノリティとしての孤独に包まれた、奥底の内なる孤独。
フレディはいつも、数の少ない方に居た。
それは彼の内なる孤独が、外に反映した結果と言える。
よく「○○だから孤独」と人は認識するが、内なる孤独の方が先にあるのだ。
内なる孤独は、奥から響いてくる呼びかけを、どこだと耳を澄ませても外に見いだせない不安から来る寂しさ、そして悲しみである。
映画のタイトルとなった曲の中で、フレディは罪を犯した孤独な少年の姿を借りて母なるものへ語りかけている。
「Mama」と訴える想いが求めているのは、肉の母ではなく全母のことだが、彼の居た頃にはそんなことは殆ど誰も知りやしない。
2019だって未だそうだろう。
この曲を聴いた人々がフレディの人生に起きたドラマ関係なしに、胸を打たれたり涙したりするのは、母なるものへの追慕が溢れる為である。
随分と長い間、不覚の人類は内なる孤独と戦って来た。
そして戦いの苦しみや、束の間得られたものへの喜びを、何だかんだ言って楽しんでも来た。
フレディ・マーキュリーも例外ではない。
彼は、仲間や家族、音楽やファンへの想い、そして華々しいステージと劇的な世の去り方を盛り合わせにして、内なる孤独と折り合いをつけた。
内なる孤独は本来、果てしないものだとして折り合うのではなく、変容に向けて昇華するものだが、これも一つの生き方。
これ以上ない程盛大に「本筋じゃない方」を体験してくれた、有り難い存在とも言える。
女王≠全母
華々しき披露で、
変容は成せない。
2019はもう、このことを知り、腑に落とす時期である。
変容の時代と言っても、係員に誘導して貰える訳ではないので、横道に入ることも出来る。
孤独を共感しあう者達でまとまって「We Are the Champions」と、見えざるものと戦い続けようとする人々も居るだろう。
全体一つの中で勝ったり負けたりの動きが起きていただけと、気がついて腑に落とす者達だけが、誰でもない者として、孤独に果てがあることを知るのだ。
母恋う、無明の女王神。
(2019/6/3)