《危と命》
『ハリー・ポッター』シリーズに盛り込まれている“不覚者が人生上で求めるもの”の中には、現実に生じるとあまり歓迎されないものもある。
それは何かと言えば、
5.危機
危機に加えて「抗えない運命」とか、「悲劇的な生い立ち」とか、不覚者の多くにとって実生活に噴出したら全く歓迎出来ないものも、「お話の中」では重要なトッピング。
「邪悪な魔法使いが登場して沢山の人を殺し、
主人公であるハリー・ポッターの両親も殺された中に含まれている」
「何ならついでにハリー本人もNOW、命を狙われている」
と言う前提がなければ、清く正しく優しい“正義の人”が、敵方に対して「奴を倒せ!」となるのは難しいからである。
「あってはならない」
「あって欲しくはない」
そうしたものを、不覚人生ドラマは必要とする。
まして「魔法」と言う、突拍子もないと言う点ではある意味ルール違反みたいな力を駆使する場合は「そうしなければならなかった背景」が大変重要となる。
こうして止む終えず始める戦いによって、危機は片付けられ「めでたし」となることが、ほぼ決まっている。
ほぼ、と書いたのは世に「めでたし」で終わる作品が溢れ返ったことで、多様化を求めたのか奇をてらったのか、そうではない「BAD END」もたまに混ざるようになったからである。
そんな例外はハリーの世界には採用されず、痛みを伴う形でリアリティを出しつつ、結局ヴォルデモートはやっつけられる。
運命とか悲劇は、「危機」に加わる大事な具材。
それを更に味わい深くするのが、
6.使命
世界が危機を打開する為の「生きた鍵」となる役目があったからこそ、ハリーはこの物語の主役となるのだ。
使命を帯びる者として彼が感じる喜びや苦しみを、読者は活字を追うことで疑似体験する。
疑似なので、興奮はしても成果はない。同時に危険もない。
だから実人生ではおよそ味わえない様な、派手な場面や展開が求められる。
読み終えて本を閉じ、観終わって映像が消えれば危機も消え、ハリーの人生の様なドラマ性はないけど落ち着いた生活に戻れる。
はずだった。最近までは。
小説や映画等でフィクションを楽しむ人々にとって、虚構の危機が今現在どんな働きをしているのかは不明だが、多少色褪せているのだろうか。
何せ、日常がどんどんドラマめいている。
個のドラマではなく、「ゴジラに踏まれない様に逃げる」みたいな感じでその他大勢として、しかも目に見えずどう気をつけても確かな安心が出来ないものに心を乱されている。
使命も分からずに収まるのを待つのみの危機は、ストレスばかりが溜まる。
罹らない様に
不便がない様に
不足がない様に
不安な気持ちによって気をつけていれば、どうしたって不満が溜まる。
様々なストレスが増し続けるまったなしの日常では、虚構に酔う気分が出ず魅力も色褪せるのだろうか。
であれば、チャンスと言える。
不満は不要だから解消してストレスを溜めない様にしましょうと言うのが不覚の人々の発想。
だが「もう、これまでの様には行かないんだな」と分割意識が諦めて、大人になる必要を認めるのに、この不満は必要な圧力である。
圧を受け切って本質を進化させるのが人型生命体としての使命であり、ちゃんと活かせる人にとっては、コロナ騒動はフワフワした不覚と言う夢から出る大きな切っ掛けとなるのだ。
色褪せて感じるのとは逆に、魅力が増すと言う人々も出ては来るだろう。
つい先日まであった予定調和の残骸としてしがみつき、「虚構しか安心させてくれない!」と、お気に入りの世界に潜り込んで暖を取ったりする。
どちらでも好きに選べる。
そして選んだ結果は自らで受け取る。
向き合ったのか。
逃げたのか。
認めたのか。
偽ったのか。
責めたのか。
感謝したのか。
ほくそ笑んだのか。
蔑んだのか。
分け合ったのか。
妬んだのか。
慈しんだのか。
誰が何をどうしたのか。
そのありとあらゆる動きを、上も全母も観ている。
逃げて隠れる場所はなし。
(2020/3/30)
静かにせよと言うことなのか、さっぱり浮かんで来ませんでしたので今月はふろくをお休みします。
年内いずれかの月にて2つご用意します。