《北風と太陽》
交流によって変化が生まれる時、変化を促して他へ圧をかけるやり方と、自らが光を放って他の熱を呼び起こすやり方がある。
前者は北風型、後者は太陽型と言える。
北風型は、より強い圧をかけることが出来た方の意に添って変化が起きる。
この主導権を求めてあっちこっちで風圧のかけ合いが発生しているのが不覚社会。
相手が吹きつける冷たい風に弱らないように、権力、財力、理論武装、キャラ設定、ありとあらゆる有利な要素を沢山着込まなければならない。
なるたけこちらは暖かく着込んで、相手にはなるたけ強い風圧を吹きつける。
吹きながら着る。着ながら吹く。まるで我慢大会である。
世に北風スタイルは横行しているが、腕組みしてとっくりと人類史を眺めてみると、北風がマトモな仕事をしたためしがないことは明らかだ。どんな大勝利があろうと、「どっかからどっかへ」富や権力や正義が移動しただけ。
「その先は?」と尋ねたくなるが、答えはいっつも「………(シーン)。」である。
全母は変化を観たいが為に、無数の我々に分かれた。
つまり、変化を求めるのは人型生命体の本能と言える。
だがそれが、「特定の存在にとって都合のいい他の変化」である場合、本能は濁って煩悩になる。
煩悩風を幾ら吹かしたところで、せいぜい一瞬「勝った感じ」を得られる位。
真に胸を打つのはいつだって「問答無用の圧倒的な何か」である。
そしてそれはおそらく、天意としか呼べない。
この件に関して、とても分かりやすい例がある。
パッと見は近いようで居ながら、見えない壁に遮られる2つの国。
どっちが悪い?
どっちが正しい?
どっちが傷ついてる?
どっちが得した?
答えの出ない堂々巡りが双方からの北風の吹きかけ合いでずっと続いていたある時。
そんな状況に驚くべき変化をもたらした人物が居た。
出典 plaza.rakuten.co.jp
政治経済学術的な外交で、何の進展もなかったとは言わない。
だが、国民感情という得体の知れないバケモノを煮て溶かすまでの変化がなかったのは事実だ。
それをこの男性は何の気なしにやってのけた。
ペンは剣より強しなどと言うが、マフラーだってなかなかのものである。
あとメガネも。
彼は何かを糾弾したり許したり説いたり、ともかく理詰めでどうにかした訳ではない。
媚びたり責めたり、感情に訴えて何かした訳でもない。
だが、彼と彼のドラマの世界は多くの人の胸を打った。
日本はずっと、深いところでは彼の国を愛したかったのだ。
そして彼の国は深いところでは日本に愛されたかったのだ。
両者の表層と深層のギャップを、優しく溶かして一つにまとめる。
無論、何もかも一つになった訳ではない。
だが、北風にはけして拓けない領域をぺ太陽は明るく照らしたのである。
離れがたくてこんなことにまで。
あの作品のヒットは全母の采配であったと感じる。
必要なのは正否ではなく、天意からの愛。
それが本当に良く分かる。
この微笑みながら両手を広げる動きは、全てを許容する忘我の境地の現れ。
そしてこの微笑みは、ヒロインに向けられているようで居て、画面の向こうの全ての人に向けられている。
射抜くような視線ではなく、一瞬どこを観ているのか分からない、ソフトフォーカスな微笑みに、男性型の端末であってもどこか菩薩の要素が見える。
そこにメガネである。鬼に金棒。
幼い頃、事故が原因で視力が低下されたそうだが、このこともソフト眼力の発揮に貢献している。
全母采配の前には幸も不幸もないのだ。
ただ己の仕事を全うし、天意の存在であること。
他に変化が起きるにあたって、こちらでする必要があるのはそれだけである。
それをぺ仕事から学ぶことが出来る。
目覚め悟りに向かうさなかに「そんな気にはなれないな」と言って来る端末が周囲に居ても、何かを教え説いたり導いたりする前に、まず、彼らが「そんなに至福って、どんな?」と思わず興味を持つ位、ご自身が至福であられること。ご自身が生き生きと進化の道を楽しまれること。
その熱が、熱を発揮したい端末の内に飛び火し、結果として周囲に変化が起きる。
これ以上に他への貢献になることはない。
微笑みの貴公神。
(2016/12/12)