月初の週明けから長くなりました。
あいすみませんが、飽きたら沢山はさんである画像ごとで区切る等なさって、気楽にご覧下さい。
では記事へ。
《創造の源泉》
映画等の創作物を必要に応じて鑑賞するが、腹の底から終始「面白い!」となるものは現状殆ど無く、「ああ、今そこか」と個々人の意図や時代の反映となっている部分を観察するに留まっている。
中心に響かないのは、作中の情報が割合皆、浅瀬で拾って来てあるものだからだ。
リスペクト、インスパイア、引用。
どれも、「人の間」で行われており、奥底からの呼びかけで、「何だか訳の分からぬ間に出来上がったもの」には、そうそうお目にかかれない。
ラジオの周波数を合わせるのと一緒で、表現者側に
「デビューしたい」
「ヒットさせたい」
「賞取りたい」
「代表作にしたい」
「人気者になりたい」
等の切なる願いが発生すると、その揺らぎで全一の調和から遠のき、上からのメッセージがまともに聴こえないし、中心から受け取るエネルギーも弱くなる。
全一に則したメッセージが織り込まれる作品になるのは、「我を忘れる程に楽しんだ」ものか、「我を没収される事件が起きた」ものである。
例えばあの青い猫型存在にアクセスした人物は、直前までアイディアが出なさ過ぎてどん詰まり。
以前にアイディアをもたらしたドラ猫のことなんかも浮かぶが(近所の猫の鳴き声が気になって説も有)、なかなか集中が出来ず、
「わしゃ破滅じゃ〜!」
と自宅の階段を駆け降りた所で、丁度娘が床に転がしていたおもちゃの「おきあがりこぼし」にけっつまずいた。
けっつまずいた衝撃でイメージが混ぜ合わさり、ハッとなって「それが起きた」そうである。
猫
+
おきあがりこぼし
+
衝撃
で、あのCAT風のMENが到来した。
ワシ(我)が破滅じゃになった途端、全一と繫がった好例
と言える。
人々が創造性を重視し、創造性をアピールした人や商いに対する目が甘くなり、すぐ崇拝に転ぶのは、創造の源泉に触れることが全母である虚空を垣間見ることに繋がるから。
源泉によく触れる端末は、集落にでかい収穫をちょくちょく持ち帰る英雄みたいな扱いになり、人も大勢集まってくる。
ちょっとずつもぎ取るのは卒業してもう一体化する時代が来ているのだが、不覚社会は未だ源泉周辺を突っついたりめくったり程度ではしゃいでいる。
覚と不覚の波打ち際に留まりたい連中は放っとくとして、変容の時代に、本来の創造性発揮を意志される皆様に申し上げられることがある。
覚者の創造は
天意からの愛
+
好奇心
+
平熱
から成る。
「破滅じゃ~」までの窮地に追い込まなくても既に、駄目にしたくない「我」が居ない。
作品の完成や出来栄え、成果ばかりを意識し、
「出来なかったらどうしよう」
「やれば出来る」
「出来るに決まっている」
「きっと出来るぞ」
の飾りをつけずに、シンプルに
できるかな
と、なる。
これは初めての体験に向かう子としての「わ~、できるかな?」であり、
母としての「さあ、できるかな?」である。
そこに不安や思惑はない。
ノリが軽くなるので色んなことが気軽に進む。
個別の名でなく「ノッポさん」と形状で表されるあの男性。
観ていると、「ゴン太くん」と呼ばれる謎の存在と張り合ったりして、結構大人気ない行動も取る。
積んだ牛乳パックに、この表情。
そして、何かに似ている様で何にも似ていない、もじゃもじゃしたこの存在は、人でも動物でもないそうである。
謎だらけと言うか、謎しかない空間で、用意された色々なものが、苦もなくひょいひょいと具現化する。
そしてその間一切の「お喋り」はない。
解説担当の、そのまんま「おしゃべり」と名付けられた女性の声が出来事の一部始終を物語り、愉快な歌も流れたりするが、映っている者達は喋らない。
ゴン太くんが感極まった時に、良く分からない謎の音を出すのみである。
これが宇宙のノイズなのだろうか。
そんな彼らの姿を観察していて、
創造の源泉は
沈黙の中に
と言う、真理にあらためて気づかされた。
あの番組が長く放映され、放送が終了した今の今でも愛されているのは、普遍にして不変の、全一の静けさが保たれているからである。
主役が沈黙するということが、その要となっている。
どれだけ外野がワーキャー言っても、
生み出す意識の側は黙るのだ。
そうすれば常にベストなものが出来てくる。
この番組の最終回では、最後の最後に喋らないはずのノッポさんが喋った。
これは「喋ったら終わり」を表している。
つまり、喋らなければ創造は終わらない。
自由奔放な中に母性も垣間見えるあのノッポさんは、身を以て意識がお喋りを止めることの大切さを教えてくれる、「沈黙の創造神」なのである。
できてごらんよ。
(2017/9/4)