《分福茶釜》
仕事を終えた帰り道、子供らにいじめられている狸を助けたお爺さん。
恩を感じた狸が化けた茶釜を、道端で見つけて、寺の住職に売り渡す。
立派な茶釜だもっと綺麗にしなさいと、住職から言いつかった小坊主がせっせと磨くと、「痛っ!」の声と共に茶釜が狸にちょい戻り。
小坊主から報告を受け、茶釜で湯を沸かしてみたところ、焼け狸が逃げ出してビックリの和尚さん。
売ったお爺さんも、思いもよらぬクレームに驚く。
その晩、おなかを焦がした狸がお爺さん宅に謝りに来る。
完全流れ弾で叱られた訳だが、文句を言うどころか狸の焼けたおなかが治るようにと薬を塗るお爺さん。
お爺さんは狸の、狸はお爺さんの、互いの真心にほろりとなる。
感謝の気持ちからだったとしても、やはり、人を騙してお金を手にするのはおかしい。
化けて売らせると言うのは企画の段階で失敗だったと気がついた狸は、お爺さんの役に立とうと新たなアイディアを思いつく。
今度は独断でなく、お爺さんに相談し、協力を仰ぐ。
新企画は、「茶釜に化ける狸だよ、芸もするよ見においで!」な舞台を作ること。
何も秘密にしないし、「茶釜なの?狸なの?」と目を凝らす観客に向けて、更に綱渡りの曲芸も披露する。
これがあたって、お爺さんと狸のコンビは大成功しましたとさ。
狸が茶釜に化ける話は日本各地に伝わる。
住職の所から茶釜狸が慌てて逃げ出すシーンで終わっている話あり。
水の尽きない茶釜を持つ不思議な僧が、実は狸の化けた者だったという話あり。
お爺さんじゃなくて古道具屋だとか。
いや、素直で優しい若者だとか。
曲芸でお金を稼ぐ段もあったりなかったりで、要するに
狸&茶釜
の要素が入っていれば何でもと言う位、色々である。
この色々具合も含めて『分福茶釜』について観察し、唸った。
静物(茶釜)が
動物(狸)へ
つまり静が動へ、無が有へ転換する。
小僧の対応がソフトバージョン。
「茶釜」の内包する空間から、「狸」のかたちをとって躍動するいのちが出現。
その切っ掛けが、
見返りを求めずに
何の気なしの
愛と慈しみを
行動で示すこと。
狸が恩を返そうとしなくても、お爺さん的には全く気にならなかったろう。
「かっぱのおんがえし」って何だろう。
彼は只、エゴによって虐げられているものを見て「変だ」と感じて、それを解放した。
相手が狸でなくとも対応は同じである。
何の気なしの自然な行いが、ビックリするような繁栄の発生につながる。
そしてそれは途中で一回おなかを焼いたりと、「予想外な展開」を見せたりする。
そこで、気持ちはありがたいが所詮は狸のすることだからと、可能性を埋め立ててしまわずに、変てこな事態にも嫌がらず向き合うと、予想もしなかった面白い流れが発生する。
一旦全体に則すると決めたなら、意識が揺れることの多い場面に行き当っても、ブレずに全母へ采配を任せ続けることだ。
そして、起こること一つ一つに、真摯に向き合うこと。
分福茶釜は、
急展開への柔軟な対応の大切さ、
まるで違う場所に生きて来た存在同士が協力する面白さ、
そして何より
茶釜と言う空間から狸が現れる様に、
全ては無が有を生んで起きていると言うことの素晴らしさ
これらを、分かり易く、そして楽しく教えてくれる物語なのだ。
景気よく、飛び出そう。
(2019/4/11)