《内と裏》
街を歩いていて、信号待ちの女性2人が交わす会話がふと耳に入った。
「で、すごいの送ってきてくれて、でもうちは、おばあちゃん家みたいに広くないから。だから上の二人しか飾ってなくて。
おいなりさん?」
「………あ、
おだいりさま?」
「そう。あと、おひなさま。それしか飾ってない」
お内裏様の
存在感(の無さ)。
しばらく「おいなり」と「おだいり」をイメージの中で丸めて、ジャグリングのようにして遊んでいたのだが、
おだいなりさん。
「内裏…。内と裏がぼんやりしてる、ってことか」
と、腑に落ちる。
ぼんやりっていうか、存在感ないっていうか、忘れられがちっていうか。
霞んでる。
とにかく印象が「薄い」のだ。
「内裏」とは宮城の中で天皇の住む領域を指し、禁裏や御所、大内とも呼ばれる。
宮城そのものではなく、天皇の「私的領域」としてのあくまで「部分」。
宮城の方は後に大内裏と呼ばれるようになった。
赤枠の領域が大内裏、青枠の領域が内裏。
この内裏、ドンと定位置に納まっていたかと言えばそうでもない。
火事でちょいちょい焼け出されて、他に作った別邸を里内裏と呼び、そっちに籠って結局は当初の内裏の方が意味を失った。
そこで、「あ」と気づいた。
言うまでもなく、この物理次元に現われる存在は全て、内側裏側の虚空(全母)から生み成されている。
見えざる全母の存在感がないのは、不覚社会にとって当然であり何も不思議はない。
逆を言えば、全母の存在感がないからこそ、不覚で居られる。
全母の領域は内と裏。
その「内と裏を名乗るMEN」とは、御神体の内側裏側で全母との交信役を担う申し子、分割意識に他ならない。
存在感ないってさ!
セカンドハウスやテラスハウスを作ってそっちに入れ込んでたから無理もない。
けれど青春の影に見切りをつけて、大人になる時期が既にやって来ている。
いつまでも子供のままで居ると、負の引き寄せとして、目覚められない理由に使えそうな混乱した状況を沢山発生させ、それに追い立てられて大聖堂でパトラッシュと一緒に眠くなっちゃうような感じにまとまる。
それもそれで自由だが、この時期に複数の道が意識に提示されていること自体が全母からの恩寵。
恩寵は多種多様であり、当宮記事を通して皆様がお感じになられる真実もその現れの一つ。
ご参拝下さるグッドセンスな皆様におかれましては、どうぞこの機を逃さず「本当に歩みたい道」に、意識の照準を合わせ続けて頂きたい。
以前、冊子で申し上げた通り、稲荷は意鳴であり意成でもある。
意を鳴らし、意を成らせる存在である全母。
その申し子として活動する我々分割意識達は、単に子であるだけではなく本質的には全母と同じ。
つまり我々も質においては「おいなりさん」。
内・裏の全母の代理である「おだいりさま」は「おいなりさん」でもあるのだ。
冒頭の女性、ナイスチャネリング。
(2017/3/9)