《三匹のこぶた》
本年は亥年、つまり猪の年。
豚はこの猪を飼育や食用に適化したもの。
不覚社会では、人の生活に合う様に変更したものを「改良」と呼ぶ。
品種改良の多様さと意識を向けて、すぐ浮かんだのが薔薇であった。
色鮮やかに、香り豊かに、そうして薔薇には沢山の品種が生まれた。
薔薇程多くの種類はないが、育て易い様に、美味しい様にと、人の必要に応じる度に、豚にも新しい品種が出て来た。
空間全体として観たり聴いたりが普通になると、起きていることをエゴが好きな「食うか食われるか=勝つか負けるか」で、捉えなくなる。
ここから観て、「求めに応じて自在に変化する動き」は、シンプルに「愛」と映る。
貢献の割には、豚は薔薇程には人から愛や感謝を捧げられてはいない気がして不思議だ。
地味で平凡な存在で、しかも好き勝手に増やせるものであると、不覚者は簡単に舐めてかかる。
豚は食べちゃ駄目と教える信仰もあるが、食べちゃいけないその理由は「不浄だから」。
愛や感謝とは程遠い。
豚の神ってないもんかと調べてみたら、ハワイ神話にカマプアア(豚の子)と言う名を持つ半神が居た。
結構人気がある神だそうで、豚から人間の美男、大きな魚等、自在に変身することが出来る。
神話によればこのカマプアア、火山の女神ペレの夫となるが、やがて彼の豚の本性に我慢ならなくなった妻と大げんか。
桁外れの乱闘の後、ハワイを二分してそれぞれの居場所を定め、ようやく騒ぎが治まることになった。
夫婦喧嘩の火種に豚の本性が挙げられているし、求婚の際にも「美男子に見えるけれど豚よ!」と暴かれたりするなど、ここでも「豚らしさ」には愛も感謝も向けられていない。
色々あたってみたが、金運を呼ぶご利益をプラスして崇める地域がごく一部ある位で、大体世の中は豚に厳しい。
全一状態を一つの球に例えてみると、「豚への敬意」の所は大変に凹んでいる。
『三匹のこぶた』では、そんなへっこみ部分にある豚が大活躍する。
元々の話では、一匹目と二匹目は狼に食べられて、三匹目が逆に狼を食べる結末になっている。
これでは余りに残酷だとその後、物語に様々な変更が加えられた。
「三匹のこぶたが協力して狼を退治」とか「改心した狼とも仲良くなる」とか、辛いカレーに林檎や蜂蜜、ココナツミルク等を入れてどうにかまろやかにしようと頑張った結果、もうカレーじゃなさそうな何かに仕上がった。
現在絵本等で出回っているのは専ら、このまろやか仕立て。
だが、『三匹のこぶた』における重要なメッセージは以下の二つ。
「三匹目が狼の策略を受けきること」
そして
「豚が狼を食べること」
にある。
狼の鼻息ではびくともしない、三匹目のこぶたが建てた煉瓦の家。
狼は三匹目も、先の二匹と同じ様に食べようと目論み、美味しい蕪や林檎を取りに行こうと誘ったり、市場に買い物に行こうと誘ったり、あの手この手でこぶたを頑丈な家から外に出そうと試みる。
こぶたはその裏をかいて、先に美味しい蕪や林檎を収穫したり、市場へのお買い物をして来たり。
一方でこぶたは決して、食べられる前に食べてやろうと、狼の棲み家を襲ったりしない。
争いが嫌になって狼が立ち去れば、話は終わりになる。
只、それだけのことなのだ。
ところがどうしてもこぶたを食べたい狼はついに、煉瓦の家に登り煙突から侵入しようとする。
侵入経路のゴールは、煮えたぎった鍋。
冷静であれば引き返す所を、頭に血が上った狼はそのまま鍋に到着。
鍋の前で待っていたこぶたが、それを煮込んでスープにする。
この物語には面白い切り口で、「自他のなさ」が描かれている。
相手を食べようと踏み込み続けた結果、待っていたのは自身を煮溶かす場であったと言うこと。
全体眺めてみると、こぶたは一匹目も二匹目三匹目も、結局は「同じ存在であった」のではないだろうか。
彼らは役割分担をして、狼の姿で表されたエゴの「際限なく食べ続けたい」性質を十分に表に出した上で、そのエゴさえも鍋で煮溶かして食べ、昇華した。
そうしてエゴを昇華した後に、こぶたは不安も恐怖もない新世界に元気よく飛び出して行く。
“こぶたは狼のスープを飲み 夕食にしました。
もう怖いものも ひと呑みにして 恐れる事も平気になりました。
そして こぶたはまた 幸せを作りに外へ飛び出しました。”
幸せは、誰かや何かから
貰うものではなく、奪うものでもない。
自ら動いてきっかけを作り、
その瞬間を楽しんで受け取り、
味わった歓びを全母に捧げるものだ。
“幸せ作り”を存分にしようと飛び出す前にまず、
冷静にエゴを観察してその思惑の裏をかき、
焦れて性質が剥き出しになった所を、
丸ごと平らげることが必要となる。
その重要なプロセスを、『三匹のこぶた』は教えてくれているのだ。
貪りも溶かして昇華。
(2019/1/7)