《ハーメルンの笛吹き男》
“言って伝わらねぇなら、馬鹿が笛吹いてるのと同じだからな”
以前に上から貰った、世にも甘くない一言である。
要するに本質が伝わらずに、雰囲気だけ好まれたり支持されるに留まるなら、「全体の進化発展」に捧げる一手としては、大して意味がない。
人気取りの為に気休めで調子のいいことを言う端末達と、そう変わらないと言うメッセージ。
これを拝聴してからは一層、真に伝わる必要があることがどれだけ浸透しているか、これだけを重要な点と定めている。
そのせいか、益々の平熱と研ぎ澄まされた感覚を以て、事に当たれるようになって来た。
一方、不覚社会の揺らぎはじわじわと増大しているようで、古い秩序の破れ目から、紛糾するエネルギーが吹き上がるのを、ニュース等を通じて静かに眺めている。
これから、不安を紛らわす為に平時には、付いて行くなどおよそ有り得なかっただろう、変な笛の音に従って列を作る人々も増える。
『ハーメルンの笛吹き男』は世界の民話の中でも相当奇妙な存在と言える。
事件→解決→大団円
大まかに描くと、昔話の多くがこのパターンに納まる。
だが民話には、道徳や慣例を重視するコミュニティー(例:村・家庭)から、聴き手に教訓を与えようとする操作性もある。
その為、わざとバッドエンドに寄せて、「○○しないから××な目に遭いましたとさ」として暗に脅しをかける仕上がりにすることも多い。
ところが、『ハーメルン』では、結局誰が幸せで、誰が不幸せになったのかが、いまいちはっきりしないのである。
13世紀頃に起きた実際の出来事をベースにしているらしいが、実在のモデルが居る民話は他にもある訳で、この何とも言えない結末を
「これがリアル!」
とはちょっと言い難い。
一応、話の概略を申し上げると、
ハーメルンの町に穀物を食い荒らす鼠が大発生。
困った人々の元に、色とりどりの布で出来た服を着た奇妙な男がやってくる。
男は、報酬をくれたら鼠は退治すると約束。
ハーメルン側も男に報酬を約束し、鼠の駆除を依頼する。
男が吹く笛の音に操られて集まった鼠達は、男の後を追って川に入って行き、残らず溺れ死ぬ。
ところがハーメルンの人々は、約束を破って男に報酬を払うことを拒否。
男はその場を立ち去る。
後日、大人達が教会に集まり家を留守にする時間に、再び男がハーメルンに現われる。
男が笛を吹きながら町を歩くと、家に残っていた子供達が出て来てその後を付いて行った。
若干、サンタと混ざっている。
町中の子供達130人が笛吹き男と一緒に、町の外にある山の中腹に空いた洞穴に入って行った。
穴は中から岩で塞がれて、笛吹き男も子供達も、二度と戻らなかった。
とまあ、こんな感じで締めくくられる。
締めくくられるったって、何ひとつ解決も破綻もしちゃいない状況で、いきなり終話となり、聴き手は置いてけぼりを喰らう。
あんまりだと思ったのか、後日談等が編み出されたりもしたが定着せず、本筋は不思議なままの結末で残り、今に至っている。
消え去った子供については「全員一人残らず説」と、足の不自由な子達、又は耳が聞こえない子と口がきけない子の組み合わせで「2人が残った説」とがある。
子供とネズミまで混ざっている。
笛吹き中に大人達に出くわした訳ではないので、この2人の伝え手が居なければ、「何があって居なくなったか」さえ分からなかったろう。
彼らは事件が伝わる為その場に残された、生き証人とも言える。
聴けば聴く程に奇妙な内容で、不覚社会もそう感じたのか「実はああだった」「真相はこうだった」という様々な憶測が後を絶たない。
ちょっと驚いたのは、鼠のくだりが後付けだったこと。
16世紀に、大量に発生した鼠を駆除する内容の別の物語と『ハーメルン』が何かの拍子に習合した様で、そうなると元は、約束破りも何も無い「単なる誘拐拉致話」だったことになる。
不安と、奇妙と、魔術。
エゴの大好物を織り交ぜて作ってあるだけの物語なら、正直もう飽き飽きしており、ここまで気に留めたりはしない。
どうにも腑に落ちない。
首を傾げていて、突然に、この物語に織り込まれた重要なメッセージの存在に気がついた。
やはり鼠は重要だった。
と言うか、鼠プラスで「完成した」から、後世まで語り伝えられ残ったとも言える。
これは人型生命体の内側で起きていることを表した物語だったのだ。
馴染みの面々では手に負えない事態が発生した時、何処からともなくやって来た余所者が、それを解決すると申し出る。
日常の中に現われた、非日常の塊の様な、色とりどりの布で継いだ服を着た謎の男。
そんな馴染みのない異分子からの提案でも、藁にも縋る思いで町の人々は出された条件を飲む。
これ自体は本道だった。
おおきなかぶの鼠のように、仲間じゃなく、大して力もなさそうな、訳の分からない存在に起こることを託してみる時、常識のレールを外れた結果が導かれる。
ところが、実際に解決されてみると、町の人々にとって途端に「何事もない状態」が普通になった。
「何事もなさ」に報酬を払うのが惜しくなったのである。
まして、相手は町の過去や未来に何の繋がりもない、只の異邦人。
まず身近にいないタイプ。
これが誰か「町の住人」だったなら報酬が支払われた上に英雄扱いになっていたんではないだろうか。
その後のおつきあいと言う、影響を一切考慮しなくていい相手に、住民の本性が出た。
約束は反古にされ、笛吹き男は町を追われる。
町の人々は不覚の「分割意識」、笛吹き男は「人知を超えた力」を表している。
本来なら、両者間で報酬と能力の交換が行われるはずであった。
人知を超えた力は意識が必死でした約束(=意宣り)を疑うことなく、先に能力と結果を大盤振る舞いした。
それに対し、意識がしたことは成果を貰うだけ貰って感謝せず、何も捧げないままの厄介払い。
この歪んだ動きは、そのまま更に歪んだ動きを生むことに繫がる。
もう笛すら吹かない。何からも自由。
子供達とは「まっさらないのちエネルギー」の象徴である。
意識が古い自己像や他の執着する対象を手放さずに、人知を超えた力を引き寄せなどで使役する時、反古にされた“報酬”の代わりに、意識に与えられていた真新しいいのちエネルギーが持ち去られることになる。
彼らが消えてったのが「山の穴の中」だったのが秀逸である。
崑崙山と西王母の関係等でもお馴染みだが、山は形象化されたふるさと。
全母に還るゲートでもある。
そこにぽっかり空いた穴に、「人知を超えた力」と「いのちエネルギー」達は、回収されたのだ。
お叱りでもお仕置きでもなく、歪めたら歪んでくよ、しかも倍々ゲームで大きくなるよと言う、ごく当ったり前の真実である。
水面の波紋が広がる、という自然の動きを観る時、それが良く分かる。
先の「「何事もなさ」に報酬を払うのが惜しくなった」という部分に、不覚の意識の「見えぬものに敬意を払わない」様が良く出ている。
無に対し有を捧げる姿勢がない時、大事に守ってきた有までもしぼんで来る、ということ。
そして、意識が変な欲出して、「意識にだけ良かれ」な球を物理次元に放った時、それは万物を発展させる弥栄な結びとは決してならないということ。
この奇妙な物語は、そうした大切な真理を世に伝え続けているのである。
誓ったものを軽んじない。
(2017/5/11)