今回長文につき、半分に切るつもりでしたが、ちょうどいい頃合のところがありませんでした。
「こんな情報量いらないな」と感じられたら途中でやめてみたり、飽きない程度に適当に区切ってご覧ください。
相済みませんが、木曜記事をあっさりと仕上げてバランスを取りますのでご了承ください。
では記事へ。
《ハートに火をつけて》
という邦題がついた曲がある。
同タイトルの後続作品もあるが、ドアーズの降ろしている情報は桁違いなので、やはりこちらが本家と思う。
1967年にリリースされたこの曲には、バンドの象徴的存在であったジム・モリソンのみならず、複数名が創作面で深く関わっている。
冊子をお読み下さった方へは言うまでもないことだが(お忘れの方は永ちゃんもしくは安全地帯についての記述をご参照下さい)、複数人が関わり一個人の思惑を超えて、“喜び”という適切な熱量のエネルギーがそこにあった時、虚空の手が人の営みに介入する。
この曲の骨子を訳してみる。
「 さあ 俺に火をつけて
この夜を燃やす用意をしよう
(略)
ためらう時は過ぎた
拘泥する間はもう無い
今やろう
でなきゃ時間の無駄になる
(そして)俺たちの愛も
火葬場の薪になってしまう 」
大体お見事である。
火をつけて(覚悟の行動をして)、
自身が炎となり(変容して)、
この夜(今置かれた不覚の状態)を
燃やし(昇華し)、
夜明け(目覚め)を迎えなければ、
生ける炎ではなく、火葬場の薪(変容の時代の燃料)の側になるということだ。
生ける炎は、対極のようで居て、生ける水に同じ。
万物と一体化した流動する不滅の存在のことだ。
「俺」とは分割意識のことであるが、これは男が女に呼びかける歌である。
べイビーなんつって。
だが「俺たち」として呼びかけているのが御神体にだとすると、概ねお見事かつ、とんだ素っ頓狂なことになる。
火がつく合図は分割意識(男性性)側の覚悟だからだ。
そして火を持つのは御神体(女性性)でなく、虚空(全母)である。
空意識に全権を委ねながら、自ら覚悟の行動をすることを契機に火がつく。
発火≠着火
変容の自然発火は、真正面から虚空に意識を対峙させることで、内側から起きる。
自然発火≠おねだり着火
おねだりでは駄目だったパターンが、ツマをママ扱いする見当違いもプラスして、この楽曲に記されている。
貴重な教材と言える。
ドアーズ(The Doors)の名はオルダス・ハクスリーの著書「The Doors Of Perception(知覚の扉)」中に書かれたウィリアム・ブレイクの詩の一節からつけられたという。
If the doors of perception were cleansed, everything would appear to man as it truly is,infinite.
(もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとって“真の無限”として立ち現れる。)
素敵なフレーズだが、ハクスリーみたいにメスカリン(幻覚剤)頼みだと、いつまで経っても「人間のままでそれが起きる」という発想にしかならない。
ドアーズは精神世界に傾倒したバンドとして知られている。
メンバーの一部はメディテーション・センターで出会ったという。
各自の素養だけでなく、時代の気配が追い風になっていたことは無視できない。
1960ー70年代は、数千年前に一度閉じられた精神世界への扉が再び民間に開かれた、活気に溢れる時期であった。
しかし、いかんせん埃だらけの所をやっとこさ開いたので、随所に素朴さが目立つというかまあ、
何につけ雑であった
のはご存知の通り。
覚醒の一瞥を垣間見る為にドラッグを始めとする、脳内物質を掻き立てる為のモノコトを踏み台にジャンピングを繰り返し、体力が尽きると世代のカリスマを象徴に押し頂いて、大概は「その辺のおじさんおばさん」ポジションに収まった。『あの頃は良かったね』とか言いながら。
それが当時のベストだったことは良く分かる。それも一つの体験である。
だが、その時代からとっくに学び終えていいことがあるはずだ。
ちょっと不安に駆られては、似たかよったかなことを繰り返したりせずに。
酒やドラッグで行けるニルヴァーナなどたかが知れている。
セックスも念仏でも同様だ。
そのことに何故、世人は気づかないのか。
結構前に、そんなことを呆れながら思っていたら、イメージを断ずるような回答が上から降って来た。
『 気づく気が、ない。 』
「なんと」
とは思ったが、実はあんまりショックじゃなかった。
そういう者達も居る。
どこかでそれを知っていたからだ。
別の折に、こうも言われた。
『過去をやたらと礼賛するものは、
歴史から本気で学ぶ気がないものばかりだ。
彼らは歴史から学んでいない。
歴史で鼻かんでいるだけだ。』
鼻かんでいるだけとは
なんちゅう言い方
と思ったが、今溜め込んでいる鬱憤を、過去やその焼き直しに熱狂しながら排泄し、憂さを晴らしていることを、鼻かんでるとは言い得て妙だと感心した。
今に生きる我々は、ドアーズや戦国武将などで鼻をかまずに、今の落とし前は今でつけることだ。
過去にフォーカスするなら、この記事のように今を使って過去を成仏されたし。
知られていること(常識)と知られていないこと(真理)の間にドアがあるったって、「これか?」「ううん、これか?」「いや、こっちか?」としきりに色んな教えや快楽や美学の扉をクタクタになるまで開けまくっても、ナビがエゴならドアの先にだって更にドアが待つのみである。
真理はこうなる。
©藤子プロ 小学館
どこにでも行けるドアという触れ込みだが、実際は“どこだってドア”なのだ。
どこでもドアとはそう言うことだ。
変容の時代に必要なのは、新しいアイテムをゲットすることではなく、むしろ手荷物検査で引っかからないように不要な荷を片付けることだ。
そして、どこだってドアだったと、はっきり認めることなのだ。
『ハートに火をつけて』とは絶妙なタイトルである。
これは聖心のことが表れ出ているのだが、実際の所、曲の原題にも歌詞にもハートという単語は一つも出てこない。
この不思議さにも虚空の影を見る。
2016にこうして、この曲を通した虚空のメッセージが伝わった。
真正面から虚空の天意に対峙すれば
ハート(聖心)に火がつく。
だが、うそぶいてそっぽを向いたり保身の念で逃げようともがいたりすれば
尻に火がつくことになる。
実にいい時代である。
背を向けて、(色眼)鏡で見ると逆になる。
(2016/06/27)