勢いよく育った豆の木並みに、大きなサイズの記事となりました。
あいすみませんが飽きない様、適度にお休みしつつ、一粒ずつよく噛んでお召し上がりください。
木曜は短めに仕上げます。
では記事へ。
《ジャックと豆の木》
「時を得る」と言う表現がある。
毎瞬虚空の0に帰還しつつ、物理次元に満ちるのは常に、“喜ばしき今”。
とは言えども、モノコトを行うにはそれぞれ丁度いいタイミングがある。
それを教えてくれるのが、表題の昔話。有名なお話だが一応、概要からご紹介する。
母一人子一人の貧しい暮らしで、もはや牛を売る他なしになってしまったジャックの家。
「なるべく高く売っておいで」とお母さんに言われて出かけたのに、市場に行く途中で偶然会った男が持っていた、何だか不思議に綺麗な豆に心惹かれるジャック。
「これは魔法の豆なのさ」と自慢する男。
ジャックは男に言われるまま、連れてた牛を豆と交換。
喜んで帰って、母親にどやされる。
お母さん的には、牛を売ったお金でどうにか二人食いつないで…のはずが、息子がキャッキャしながら持って帰って来たのは
綺麗な豆
頭に来て豆を庭に放ん投げてしまう。
お母さん的には腹いせだが、豆的には蒔いて貰った嬉しい状態。
怒ったお母さんと悲しくなったジャックが眠ってる間に、豆は芽を出し一晩で急成長。
翌朝、不思議な豆は空の雲にまで届く巨木となっていた。
それを見たジャック。収穫出来そうな豆を探すとかでなく、
迷わず登る。
グイグイ育った豆の木を、グイグイ登る。
登りに登って雲の上に出ると、そこに美しいお城を発見。
雲の上に住む人喰い鬼の城で、鬼のおかみさんが何故かお人好しだったもんで、ジャックは食べられない様、かまどの奥に匿ってもらう。
帰って来てご馳走を食べ終えた鬼が、眠ってしまったのを見て、城の宝である金の卵を産むニワトリを持ち去るジャック。
一旦は地上に帰り母親を喜ばせるが、再び、そして三たび別の宝物を鬼の城へ盗みに行く。
金と銀の入った袋は良かったが、最後に盗ったのが魔法で歌うハープで、眠ってる鬼に「自分、盗まれてます」と歌で宣言。
起きて追う鬼。逃げるジャック。
地上に着いて、鬼がすぐそこまで来ているその頃合いで、今の今まで降りるのに使ってた豆の木をばっさりカット。
まだ木の上に居た鬼は高所から落下し、そのままお陀仏に。
ジャックは宝物を手に入れ幸せに暮らしましたとさ。
こんな感じのお話。
父は出て来ず、そもそも鬼がジャックの父親を食べたとか、宝も元は父親のものだったとか「宝を持ち去るのも仕方なし」な話が付け足されている版もあるが、単純にジャックが「母の一人子」なのが興味深い。
マリアとイエスの姿に重なり、0から生まれる1、全母から生まれる分神の姿の表れでもある。
そんな母の元で愛されてすくすくと成長したジャックは、素直かつフィーリングで生きる自由な息子。
今の我が家の総資産とか、そこで牛を売ったら幾らになるでしょうとか、一切抜きにして飛びつくのが
道で遭遇した何か綺麗で素敵な豆
しかも魔法の豆。見知らぬ人物発信の、この触れ込みも勿論疑わない。
こんな訳の分からないギブ&テイクに、母親の表層意識は怒るかも知れないが、深い所では違っていた。
奥底に在る全母性の発揮によって、我知らず、豆は大地に投げられる。
行き先がゴミ箱や暖炉だったり、「こんなもんでも腹の足しにはなるか」と二人の口に入ってたりしてたら、こうはならなかったのだ。
パッと見は双方、行き当たりばったりだが、母子の間に愛が充ちていたからこそ、こうした天意の運びも起きたと感じる。
豆の木が導く雲上の世界は、不覚の意識が旅する内的空間の象徴。
そこにはタブーや恐怖を集め固めた様な存在、「人の血を啜り肉を喰らう鬼」が棲んでいる。
気力を吸い取るエゴプログラムが肥大し、傍若無人に暴れ回る。
その様子が、人喰い鬼の姿に良く表されている。
ここからジャックの宝盗りを手伝うのが鬼の奥さん、つまり女(=女性性)であるのも面白い。
鬼嫁からのアシストは、「男(=男性性)が奥(虚空)から宝を受け取るのに、女の力が欠かせない」ことを示している。
シンデレラに出て来た名付け親の妖精にも似た、謎の女魔法使いが雲上の世界に登場するバージョンもあり、でかい豆の木に目が行ってて気づかなかったが、よく読むと女の力が随所に発揮される物語だ。
そうした女力を活かすにもその種、やはりジャックが豆に行きあう下りは欠かせない。
訳の分からない流れでも、波が来たら乗っちゃいなよとは、猫の尽力で王になった粉屋の息子も教えてくれた真理。
これに加えて、『ジャックと豆の木』に強く描かれている教えが、
「タイミングを逃さないで、その瞬間にしか出来ないことを的確に行う」
ことの重要性。
三回に分けて宝を盗みに行ったのは、「昔話の三度繰り返すあるある」で、ジャックが欲かいて未練がましかった訳ではない。
ハープを盗った時点で、引き際。
頃合いが来たのだ。だから楽器も歌って鬼を呼んだ。
ジャックが地上に降りたのは、鬼が追いつく寸前だった。
この僅かな間に「折角こんな大きな木に育ったのに」とか「牛と交換した豆なのに」とか、「せめて豆収穫してから」と、豆の木を失うのを惜しんでいたら、
又は、「こんなに太い木、一人で伐り倒せるかな」や「あんな近くまで来てる!もう間に合わないかも」となったりしても、
どちらでも鬼はジャックから宝を奪い返し、ついでにジャックの命も奪って行ったろう。
とは言え、これは勇気の話ではない。
普段から如何に「エゴの損得抜きに」「フィーリングで」取り組んでいるかが、土壇場で出ると言う話だ。
ジャックはいちいち思考を広げて小細工しなかったので、結果として最も適切な行動をとることが出来た。
わーっしょい!
もう2018ともなると、毎瞬毎瞬が「のるかそるか」の正念場。
「乗り遅れてる、出遅れている」感覚が、焦りと共に湧くと言う方は、この物話をじっくりお読み頂き、まず出だしに阿呆息子が
どれ程軽いフィーリングで事にあたっているか
ここをご確認頂きたい。
食い詰めているのである。
頼れる一家の長は居らず、母一人子一人、明日をも知れないのだ。
そんな中、このノリ。
牛の方が険しい顔。
お話だからと片付けず、これがもし自らだったらと眺め、「え、ここで牛から豆にチェンジ?」とビックリされたら、次は後半の身軽さにご注目。
総じて観ると、
牛からの豆、豆からの木、木からの斧。
全部がサクサクしている。
大一番でだけ的確に動こうとすると、いざの時、足は重いまま。
そもそも全瞬間、どれも分け隔てなく大切なのだ。
気楽息子の様に今に注力し、軽く明るくお過ごしになられることが肝要である。
普段から、サクサクしておこう。
(2018/4/23)