長いですがとても重要だそうです。
飽きない程度に少しずつ分けてでも、気長にご覧下さい。
木曜記事は、あっさり仕上げます。
では記事へ。
《ウサギとカメ》
“ウサギとカメが、駆け比べをすることになった。
ウサギは自慢の足で差を付け、カメはそれを一生懸命追いかける。
ウサギは走りに走って、ゴールまであと少しと言う場所まで来た。
振り返っても、カメは影も形も見えない。
ここらで待ってて、カメが来たら目の前でゴールしてやろう。
そう思ってウサギは横になる。
ぐっすり眠っている間に、休まず少しずつ進んだカメがそのままゴールに到着。
ウサギは飛び起きて追いかけたが間に合わず悔しがるのだった。”
イソップ童話集にも収められている有名なこの話。
実はウサギとカメのそれぞれに、不覚から覚へ向かう2つのタイプの姿が織り込まれている。
ウサギはサイキックな力に富んだ感覚の鋭い端末達。
カメは感覚が鈍く少しずつしか歩が進まない端末達。
ここに気づいて再びこの話を眺めてみると、その見事さが分かる。
ウサギは飛ぶように駆け、跳ねる時に宙に浮く。
地面に貼り付いていては到底見ることが出来ないものを見るのだ。
速く動けるので成果も実感しやすい。
何より、世間一般より自分が優れていると思うことが出来る。
ますます進みが早くなる。
片やカメの方は視界が狭い。
足が短いし、重い甲羅をしょっているので、じりじりと着実に進むしかない。
ひっくり返ったりしようものなら、なかなか起き上がることも出来ない。
目の前でウサギがどんどん小さくなるのを見送っても、それでも一歩ずつ、進むのだ。
こう書き連ねると全くカメに分が悪い話の様だが、童話の顛末の通り、実際そんなこともない。
サイキックウサギも確かに八合目までは割合先に来る。
何たって自慢の走りを見せつけたいので、それに酔ってる内にそこら辺までは辿り着く。
ところが八合目にはこれ以上先に進ませまいとする妨害エネルギーがウジャウジャしている。
それは「あいつは敵だ」「お前なんかまだまだだ」と言った脅しのような声だったり、逆に「お前は特別だ」「お前こそが素晴らしい」と言う甘い囁きだったりする。
世間はあの童話のウサギが「足の速さを過信してヘタこいた」としているが、足と同じ位、耳も歩みを止める。
余裕だと横になって寝たのは、姿が見えなかったこともそうだが、耳を通してカメの足音や気配を感じなかったからである。
ライバルがどこまで進んでいるのか耳を澄ます時、ウサギの大きく長い耳は必要のない情報も取り込みまくる。
その鋭すぎる聴覚で、意識が眠るか狂うかしてしまう。
何故なら、元々ウサギの聴覚は外敵からの危険を察知する為に発達しており、従って「チューニングを危険に合わせている」。
「恐怖」で検索入れてる情報は恐怖を招く。当たり前すぎる結果である。
ウサギの長い耳にあたる、旧式サイキックの鋭い感覚を自ら塞がなければ、八合目では雑音の嵐だ。
そんな八合目には、徒党を組んで横道に逸れようと言う誘惑もある。
ここでも見事にウサギとリンクする。
ウサギには寂しいと死んでしまうと言う俗説があるが、実際は単独行動を好み、縄張り意識の強い生き物らしい。
人から見れば「いきなり」な世の去り方をするのは、ショックやストレスに弱く、ひっきりなしに物を食べていないと胃腸の動きが低下するからだそうで、集まって生活しているのは情愛が深いと言うより、世に満ちる「危険!」への不安を和らげる為。
また、多産の象徴とも言われている。
恐怖に敏感で、発情過多な生き物が、他を見下せる高地に同種の仲間達と到着するとどうなるか。
適当な高さの踊り場にユートピアを作って、繁殖する。
そして肉体を脱ぐまで意識を寝かせながらそこで暮らす。
では、カメの方が有利なのだろうか。
そんなこともない。
「こんな重いもの背負わされてるんだもん、不公平だよ」
と、硬くて重い甲羅を言い訳にしたり、
短い足を恥じて、
「ウサギと並んで走ったら、遅くてカッコ悪いから嫌」
と、甲羅に籠って過ごせば、カメの骸の出来上がり。
干物ではない。
干物は風と日に当てて風味を出す手間ひまかけるもの。
何もせずに即身仏を気取るのだって、ちょっと無理があるし、骸が妥当だろう。
カメであることが受け入れられずに、憧れのウサギと引き比べて自らを恥じる時、
ウサギ達からの「鈍亀!」と小馬鹿にする視線に腹が立つ時、
自分にウサギでなくカメの役を割り当てた見えない何かを恨む時、
その何かからの愛を疑う時、
甲羅の重さは増して行く。
「対ウサギ」「比ウサギ」と言う視点が、カメの苦しみの元になっている。
ざっくり二つに割ったり、到着しないバージョンばかり申し上げたりしてアレだが、皆様ウサギかカメならご自身をどちらに近いとお感じになられるだろうか。
宮司については、今となっては確かめようがないが、「うんと早くに動き出したカメ」だったのではないかと感じている。
まだ世の中が不覚に包まれて、誰も目を覚まさない暗がりの中。
何の教えも受けない頃から「何かがある」と感じ、そこに向かって一人、動き続けた。
見えないし感じられないし、あちこち横道にも入りながら進んでいると、少しずつ周りが明るくなって来た。
陽の光や風の音も感じられるようになって、そこで沢山のウサギに出会った。
威勢良く跳び、大きな耳で聴いた色んなことを教えてくれる彼らの話は、不覚のカメ宮司にとって、それはそれは面白かった。
だが彼らはそこより先には進まず、つがいになりたいウサギや、食べたいニンジンの話ばかりするようになった。
そこを去り、際限なく繰り返す退屈な全てを手放すと覚悟を決めて、やがてカメは「ある」と感じた「何か」と一体になった。
不覚の終わりと言うゴールは、覚の発動と言うスタートだった。
競争のために出かけた訳ではないこと、
遠くから海の匂いを嗅ぐみたいに、見えない何かに対し「それがある」と気づいていたこと、
出立が余りに早かったので他と比較する機会も大してなかったこと、
ウサギに会ってもそれはそれで面白がるカメだったことが、ポイントだった様に思う。
あの八合目のウサギ達のその後は知らないが、「あの時メチャ高く跳んだ自分」「やれば出せる最高速度」、そんな話でも繰り返しているのだろうか。
「今となっては確かめようがないが」と先に書いたのは、今の宮司はカメでもウサギでもないからだ。
当宮にお越しの、極めてグッドセンスな皆様に、申し上げられることがある。
目覚めの瞬間を体験するのは
傲らないウサギと、腐らないカメ
童話ではカメが競争に勝ったが、目覚めは勝ち負けではないし、「ウサギだから」、「カメだから」、必ず到着出来る訳ではない。
そして着く前にウサギであろうとカメであろうと、その者はそれ以降ウサギでもカメでも誰でもないものとなる。
本日記事の最後に、上から度々告げられる、しみじみと趣き深い句をお届けする。
“とき遅き たがひはあれどつらぬかぬ ことなきものは 誠なりけり”
誠あるウサギとカメに開く未知。
(2017/10/2)