《わらしべ長者 その3》
『わらしべ長者』の物語では、主人公が一本の藁からスタートして長者と呼ばれる程の資産状況に至るまでに、数々の力を発揮する。
観察から分かったものだけでも並べて書くと、
観察力
受容力
直感力
オリンピック発祥物語風わらしべ。
決断力
行動力
交渉力含むコミュニケーション能力
これだけあって逆に何故それまで貧乏だったのか不思議な位だ。
困ったぞ感満載わらしべ。
信心だけ頼りにして闇雲に進もうとしても、彼の様には行かないのは明らかであることが、この力一覧から分かる。
最初に観察力を挙げた。
そもそも自らの現状を観察出来ていなければ「出来ることは何でもしてみたが、どうにももうにっちもさっちも行かん」とは分からないからだ。
人によってはそれこそばったり倒れて物理次元をそのままログアウトしてしまうまで、御神体を酷使する場合もある。
そして周囲を観察していなければ、「そう言えばあそこに観音堂があったなあ」と、意識に浮かばない。
元気に馬と並走わらしべ。
受容力は、包容力より知られていないが、己が包める範囲に限定せず丸ままを受け容れる力。
これがあったから観音のお告げも丸まま聴くことが出来た。
「観音様がこんなこと言ってくれる訳がない」とか逆に「もうちょっとサービス良く言って欲しい」等の思い込みや注文があると、メッセージはまともに届かない。
シンプルに問い、シンプルに聴く。
どう見てもモデルが居そうなわらしべ。
そうして初めて必要なことが分かる。
直感力も又、「こんなことはしない」と言う条件付けが挟まっていてはまともに働かない、丸ままを必要とする力である。
「大の大人がこんなことするか」や「せっかく授かった有難い品に対して、罰当たりではないか」等の判定があったら、
飛んでた虻をわらしべに結ぶ
犬付きチャイルドわらしべ(藁が太い)。
と言う動きが出来たかどうか。
ついでに挙げると男はなかなか器用である。
飛んでる虫を捕まえて、潰さない様に細い植物に結ぶ。
器用だし、こんな動きは「今に生きている」のが基本でなければ出来ない。
虻に気がつく五秒前わらしべ(もう藁と言うより棒)。
上手く行った状態を夢想したり暗い未来に怯えたりで現を抜かしていて、ハイ本番で突然虻をキャッチするのは至難の業である。
何故なら虻の方は常に今を生きている。ノリが噛み合う訳がない。
藁&虻は無料で手に入れた男だったが、これらがミカンにチェンジした時には、「あれ、これ段々に取り換わってく流れじゃない?」と気がついたはず。
ここで大抵の者は、逡巡し出す。
小綺麗なヤングわらしべ(虻がまるで蜂)。
「どうせならより高値で、交換したい」の欲が出て、誰の持つ何と換えようかとあれこれ意識が可能性を捏ね繰り回す。
「おいおいそれで大丈夫か」「もっと高く売れるんじゃないか」「さっきのが正解だったんじゃないか」等、横からエゴが耳打ちするので、揺れに揺れっぱなしとなる。
そうして多くの不覚者は機を逃す。
死にかけもしくは死んだ馬を、死にも腐りもしない上等な反物と換えることを、馬の片付けに困っている担当者を見かけたタイミングでサクッと出来る者はまず居ない。
交換アイテム勢揃いわらしべ。
「目を瞑ってヤ~と飛び込む」か「飽きるまで捏ね繰り回す」かの二択で動いているのは、直感力がエゴに圧迫されて歪んでいるから。
直感力の歪みは決断力を歪め、決断が歪めば当然に行動する力も歪む。
一つの力が欠けてそこだけ穴が空くのではなく、ドミノ倒しで崩れて行く。
交渉力含むコミュニケーション能力は、これまで挙げて来た力達を活かす潤滑油の役割を果たす力である。
ききみみずきんと混ざりわらしべ。
やたら尊大な上から目線や、卑屈にへりくだった態度で交換を提案するなら、まとまるものもまとまらない。
交換は施しやお貰いではないので、丁寧さはあってもあくまで対等な関係が必要となる。
『わらしべ長者』は、男と相対する人々の在り方も見事だ。
全員野球わらしべ。
ミカン、反物、馬、家と田畑。
どの提供者も「くれてやるわ!」と言う態度ではないし、逆に「へへぇ~、頂戴致しやす」みたいなのでもない。
家と田畑を馬一頭とチェンジの人でさえ「こんな良い条件、有難く思えよ!」ではなく、「あぁ馬が手に入って有難い」の感謝がある。
こんなにサクサクしてものの分かった世界での事の起こりを、不覚社会のビジネスシーンに例え話として持ち込むのは少々無理がある気がする。
上澄みを掬って、ライフハックに用立てること位は出来るだろうか。
どこ見てんだかわらしべ。
上澄みだと思っているものがアクかも知れないが。
そう言えば、アクも栄養の内と聞いたことがある。
不覚時代を満喫する養分として、アクも必要だったのかも知れない。
こうして順に読み解いて行くと、『わらしべ長者』はポッと出のラッキーボーイが叶えるミラクルストーリーでは全然ないことが良く分かる。
だが、苦節何十年の果てにと言った、艱難辛苦のドラマティックストーリーでもない。
やたらウサギが居るわらしべ。
『わらしべ長者』を親や祖父母、村の年長者からの昔語りとして聞いたリアルわらしべ世代はどんな風に感じたのだろうか。
「はぁ~、オラも長者になる日が来るかも。観音様は大事にすっぺ」
だろうか。だとしたら寺的には「大・成・功」かも知れないが、鍬や鋤を振るう地道な作業より藁を持って歩く方が楽は楽だろうし、勤労意欲を削ぐことにならないだろうか。
首を捻っていて、「あ、そうか」とストンと腑に落ちた。
当時も多くの人にとり、食いっぱぐれない為に働くのは当然のこと。
観音登場まで3・2・1わらしべ。
当然な上に福祉も生活保護も存在しないし、お天道様は照らしはしても生活に必要なものを揃え届けてくれはしない。
そして職業選択の自由もほぼない。
生まれて死ぬまで大体の道が決まっていることは、あれかこれかと迷わなくて済む点では楽だが、固定されるストレスはある。
そんな中で『わらしべ長者』の様な物語は、「でもたまに違うルートもあったりするよ」と話すことでガス抜きの効果を発揮したのではないだろうか。
わら(空)=コスモス(宇宙)の新長者。
肥え太らせたエゴで頭を重くした分割意識が、不安を飼い慣らそうとしてどれだけ安心材料を求めて暴れ回っても、人型生命体は本来未知を愛する存在である。
ほぼ固定された状態をガス抜きで維持して終える体験は、既に多くの端末が体験済。
変容の時代に在る人型生命体はそれを超えて、『わらしべ長者』からより深いメッセージを受け取り活かすことが必要となる。
それが先の時代を生きた人々へ送る、最も深い感謝ともなるのだ。
未知の出会いを楽しもう。
(2021/4/1)