《 わらしべ長者 その2 》
先週記事の終わりに、「始まりは、空洞の一本」と書き添えた。
『わらしべ長者』の中で発揮される様々な力については木曜記事に譲り、本日は「藁から生まれると言うこと」の奥深さについて書かせて頂く。
御存知の様に、藁は内部が空洞になっている。
長者となった元を辿れば、一本の藁、そしてその中の空に辿り着く。
場合によりプロローグとして観音祈願や結婚話の下りもあるが、わらしべ長者はやはり「藁」がスタート地点。
無から有の生ずること
を、これ程見事に体現している物もそうはない。
葦位だろうか。豊葦原とは、良く言ったものである。
「自分ら、考える葦なんで」とかも結構前に言ってるのに、余程エゴとの蜜月に執着があるのか、無から有の生ずると言う実にシンプルなことを人類は中々腑に落とさない。
豊葦原の瑞穂の国において、不覚が持て囃すのは瑞穂の実りであり、葦は二の次三の次どころか、「居たっけ、そんな子?」程度になっている。
米や麦を収穫した後の藁も、不覚の価値基準に沿って実りしか見ない眼には茶を淹れた後の出涸らしみたいな存在に映る。
そんな藁を『わらしべ長者』の男は、つまづいた拍子に手にする。
通常、不覚の世でつまづきは歓迎されない。
つまづいただけで、運が悪い、調子が悪い、上手く行っていないと見なして苛立ったり、やる気をなくしたりすることもある。
不覚の人は神仏からの追い風を気持ち良い感じ、格好良い感じで求めがちである。
そうした注文や査定、選り好みで機を逃すことは多い。
物理次元でのモノコトの起こりは、不覚の運不運判定など全く関係なく生じる。
『わらしべ長者』の男も目が覚めている訳ではないので、つまづきがなければ果たして藁を手にしたかどうか。
観音から「お助けアイテムカタログ」なんか渡されたら、なるべく素敵そうなものや金目のものを探して、気軽なノリで「最初に目についたんで、じゃあこの藁で!」とはならない気がする。
空の力を内包するものを手にするのに、時にはつまづきが必要になることもあるのだ。
けっつまづき、手にしてみて
「えぇ~、わらしべかよ~」
とは、なったかも知れない。
だが、彼は「お告げの内容に合ったもの」をそのまま採用した。
「草薙剣とまで言わないけど多少は頼りがいがあるものが良いな、こんなわらしべはノーカウント!」
とか言って、ポイっとしたりしないのだ。
「溺れる者は藁をも掴む」とは、必死過ぎて頼りになりそうもないものにまで縋ると言う、多少の愚か風味を持つ例え。
わらしべの果たす仕事を理解出来ない者が思いついた表現だろうが、藁には内なる空と言う奥がある。
『わらしべ長者』のお話で、主人公の男にとって初めの状態はまさに「濁流に飲み込まれそうだ!」と言う正念場。
押し流されそうになりながら、溺れることに酔ったりせずに真っ直ぐ手を伸ばした先にわらしべが現れた。
火事場の馬鹿力ではないが、水事場の馬鹿素直なんてのもあるのだなと興味深かった。
ここで素直になれるかなれないか。
観音祈願型は信心の大切さを説いたものに見られがち。
だが、気の利いたこと言ってくれたり面倒見てくれたり何かしらの反応を返してくれる坊さんを頼るのと、
言っちゃなんだが泣こうが喚こうが祈ろうが、基本ノーリアクションの像に祈願して、受けたお告げをそのまま実行するのとでは、
まるで違う。
男の受け取ったお告げは「彼&観音」で完結しているもの。
「あれ、俺の妄想かな?」で片付けることも出来るのだ。
お坊さんや小僧さんに「こんなお告げ受けましてね」と言ったって、エスパー坊主とかでもない寺STAFFから
「え~それ絶対、お告げじゃん?」
みたいな“保証”は簡単に出ない。
目に見えない、保証もないものを、そのまま採用し実行できるか。
『わらしべ長者』は、信心を掲げて私腹を肥やす出世物語に留まらない。
虚空から万物が生じることの、雛型が内包された物語である。
音を観る無音のものから、
受け取ったことを、
真っ直ぐに成す。
その時初めて、空より万への意識の旅が始まるのだ。
無に触れる、素の力。
(2021/3/29)
3月のふろくはなしで、他の月に2つご用意します。