《 だるまちゃんとてんぐちゃん 解答編その4 》
すっかりお馴染みとなった彼らについて書くのもここで一区切り。
締め括りとして本日記事ではこの作品中、最も奇妙に感じ、分かってみると最も味わい深いものとなった場面について、書かせて頂くことにする。
その場面とは、こちら。
だるまちゃんとてんぐちゃんが互いの素敵な姿と収穫を祝い合い、てんぐちゃんが
「すずめが とまるなんて だるまちゃんの はなは いちばん いい はなだね」
と讃えてくれる、作品的には「めでたし」なラスト。
ここが、当初はさっぱり分からなかった。
何故、生き物を捕まえて手にすることがめでたしなのか。
何故、蜻蛉より雀の方がめでたしなのか。
捕まえられる方である蜻蛉や雀の自由意志はどうなっているのか。
「ワー!」「キャー!」
素敵なうちわ、素敵なぼうし、素敵なはきもの、素敵な鼻。
幾つもの素敵を実現するまでに、沢山の努力があり工夫があり協力があり、歓びがあった。
そうして宝物を集める様にして素敵に素敵を重ね、結した先にあるのが、
生物の捕獲?
捕まえられるかどうかの難易度で言ったら確かに「蜻蛉<雀」なのかも知れない。
だが、こんなに弥栄な物語がゲットだぜどまりで「めでたし」となるものだろうか。
しかも適度な大きさの玉っころに収めて用事がある時だけ出張って頂くとかでもなく、紐で括って空を飛べなくしている。
相手の自由な動きを封じて、はしゃぐのって弥栄と言えるだろうか。
余りにも訳の分からないことだらけ。
「何故なんだい…」と、虚空に還ったさとしに向かって尋ねたい位だと、首を捻りながらしつこく頁を捲り続けていて、
「あっ!そういうことか!」
と、腑に落ちる絵を発見した。
それがこちら。
巻末の作者紹介に、白黒で添えられたこの絵が、積み上がった「何で?」を一気に溶かしてくれた。
彼らが「ごっこ遊びでの電車」と言う形で、彼ら自身を括っている紐は、前の頁で蜻蛉や雀を括っていた紐ではないだろうか。
一方、捕まっていた蜻蛉と雀は空を自由に飛べるよう解き放たれ、その上でだるまちゃんとてんぐちゃんの電車と並走している。
雀なんかちょっと笑っている感じである。
「うわー、見事だ!」
と、膝を打った。
雀が何で蜻蛉より「いい」結果だったのかと言えば、それは捕まえるのが難しいからじゃなく、
「てんぐちゃんも、だるまちゃんも、そして彼らの知る他の誰も、
まだ捕まえたことのないものだったから」
じゃないだろうか。
そして、てんぐちゃんが「いちばん いい はな」の理由として、捕まえられるなんて、ではなく「とまるなんて」と言っていることに気がついた。
止まるの止は、停止の止。
それまでの動きが止まり、場面として一つの「結果」が出た状態。
前人未踏の体験をする機会が目の前に訪れたこと。
てんぐちゃんはそれを讃えていたのだ。
全だるまやてんぐ未踏かは分からないが、少なくとも彼らにとっては未だ見たこともしたこともなかった体験。
新体験が起きて昇華をすると、その歓喜で彼らそれぞれの“世界”、意識領域が拡大する。
そりゃ讃える訳である。
そして新体験を一たび捕まえてはみるが、決してそこに執着しない。
何なら次の場面では彼らの方が紐でまとめられることも楽しむ。
あらゆる場面は、やってみたかっただけ。
作ってみたかっただけ。
そんな形にしてみたかっただけ。
何と自由で、豊かな世界だろうか。
求められているのは常に、新しい体験と、そこへ向ける全力の祝福なのだ。
括るも解くも自由自在。
(2020/10/22)