《 だるまちゃんとてんぐちゃん 解答編その3 》
今週記事では再び、彼らについて読み解き発見したことをご報告申し上げる。
人型生命体が物理次元で事を成す、それも本来必要な「弥栄に事を成す」のには、ちいさなだるまちゃんこと自由意志の放つ素直な求めを活かすこと。
活かした先に出来事がどの様に花開くかを、おおきなだるまどんをはじめとするだるま家の面々が示してくれている。
作品を観察するうちに、おおきなだるまどんは人型生命体の「分割意識」、その妻的だるまさんは「御神体の感覚」を象徴していると気づいた。
だるまどんは意識を向けて用意出来る全ての可能性として、候補の品々を沢山だるまちゃんに示す。
団扇やら扇子やら、ちょっと変わったデザインのものや、飾りの付いていたりするものもあり、眺めるだけでも面白い。
凄いのは、だるまどんが意識を向けていない外にまで、可能性が広がっている点である。
うちわ選びでだるまちゃんが手に取るのは、その外に生えているヤツデの葉。
団扇やら扇子やら、
全力で応えて用意しつつ、
ぴったりなものが
それらの中になくともOK。
こんなに懐が深いサポートもない。
だるまどんは「沢山集めた俺の努力が実になって欲しい」とか求めていないので、「こんだけ色々出してんのに庭の葉っぱかよ!」などと、がっかりしたりしないのだ。
「当家にある品として、どうせなら見栄えのするものを持って行きなさい」とかも言わない。
分かってる意識にとっては、あくまで自由意志の満足するものがあればいいだけで、意識側の都合は特に必要ないのだ。
母的だるまさんの行いを見ていると、御神体がする何の気なしの動きが、丁度自由意志の求めるものを自然と用意していることがあると分かる。
だるまどんがこれだけ帽子的なものを集めに集めて眺める横で、ご飯の支度をしながら最も要望に適う帽子の材料をそこに並べている。
そして食卓に並んだお椀の方が自由意志の求めに適っているなら、御神体の何の気なしの用意も構わず採用される。
はきものを見つけるにあたっては、母に代わり祖母的なだるまさんが手伝っている。
まな板下駄が出来上がる切っ掛けをくれる、妹的なだるまちゃんさんが象徴するのは「感受性」だろう。
ここがのびやかであることで直感が冴えると、事を成すにあたり更に自由度が上がる。
そして、既存のものを丁度いいパーツとして活用するところから、どんな形にも変わりようのある「餅」と言うやわらか存在での創造が求められる場では、祖父的だるまさんも加わる。
祖父的だるまさんは「分割意識の経験」、祖母的だるまさんは「御神体の経験」を示し、彼らがかつて経験して知り得たこと、学んだこと、出来るようになったこと等が惜しみなく活かされる。
過去に拘るなら、それは制限を生む。
最初に祖父的だるまさんは経験を拘りから解放し昇華し尽くす火を焚いて、創造の基である餅米を炊く。
その米を父母的だるまさん達が息を合わせて合一させ、粒粒状態から餅に変える。
そして最古の女性性と最新の女性性として、祖母的だるまさんと妹的だるまちゃんさんが協力して形作って行く。
最古かつ最新。両者は相通じており、まとめるならつまりは永遠無限である。
そう言えば彼らははきものの時にも揃って参加していた。
これを見ていると、鼻以外のものも自由に創造している。
自由意志の求めに応じる中で、思いがけない別の創造も花開いたりするのである。
どうも鏡餅が沢山と、だるまさん的な何かも創造されている模様。
それを妹のおんぶする、これから生まれるだろう存在が眺めている。
妹的だるまちゃんさんの様子を表面だけ見て
「女の子はお料理して子育てするもの」
と言ったメッセージとして受け取ると、古いお約束によるセクハラみたいになるが、「どれだけ幼く無垢な存在の内にも母性が宿る」ことを表していると分かると、大変に味わい深い。
こうして良く練られて、丁度手に収まる大きさとなった創造物を、分割意識が総仕上げをして自由意志に捧げる。
自由意志は歓びと共に、それを披露する。
ここまでの徹底した愛による全体一つの動きが、伝統をも驚かす新しき場面を開くのだ。
見事な運びに感心しつつ、まずは自由意志からの「どんなに他愛もないと感じられる求め」にも、分割意識が馬鹿にせず向き合うこと。
そして「惜しみなきありとあらゆる可能性の提供」と「それによって出た結果の規制なき受け入れ」が必要なのだと分かり頷いた。
かつてした経験を昇華する火を焚く前に、
今ここでの惜しみない実行が求められる。
それも勿論、天意からの愛で。
(2020/10/19)