《 だるまちゃんとてんぐちゃん 解答編その1 》
全く何とも不思議かつ面白い一家である。
子の一声で、持ち合わせの有るものを何なりと渡す父。
それを普段の暮らしを進めながらサポートする母。
うちわやぼうしやはきものと言った有り物の用意や、誤りとは言え地に咲く花々の調達。
一つ一つに、手抜きがない。
それだけでなく「一から作っちゃおう」と言う鼻チャレンジの際には、祖父母的な感じのだるまさん達も総出で活躍する。
一家庭の子なら、「いい加減にしときなさいよ」とたしなめられる様なだるまちゃんのオーダーに、だるま家は全力で応える。
そしてその成果を快く見届ける、てんぐちゃんと言う存在。
彼は、彼の頭に乗っかっている造形物のことを、だるまちゃんが「ぼうし」と言うのにツッコんだりしない。
相手がぼうしと言えば、それはぼうしなのだ。
「帽子じゃないよ、頭襟だよ」
とか、いちいち指摘をしない。
だるまちゃんの奔放さが際立つのと、てんぐちゃんの鷹揚さが際立つのは同時進行となっている。
そんな素敵な彼らの中でも、本日記事ではまず主役であるだるまちゃんが何の象徴と言えるかについて、申し上げる。
さて、彼は一体“なにもの”か。
純粋さか。
素直さか。
好奇心だろうか。
それら全てをひっくるめた、世俗の垢にまみれていない幼心だろうか。
どれも“それっぽい”が、そうであると不覚社会のメルヘン大好き派が良くやる「汚れなき童心万歳!」どまり。
読み手は、そうした美学が集まった意識内の理想郷をグルングルン旋回&疾走するのみとなる。
ちょっと息が切れていい汗かいた位で満足し、先には進まない。
そんな童心テーマパークに収まらない、広さと深さがこの物語にはある。
「無邪気って可愛いね、大人になってもこう言うの忘れないで居たいよね」&ホッコリ
とかで終わらない、もっと深いメッセージをこの七転び八起き存在が伝えて来ているのに気づき、ひたすらだるまちゃんに向き合い続けた。
そして、ようやく腑に落ちた。
ちいさいだるまちゃんは、
人型生命体の分割意識により生まれる
自由意志の象徴である。
意志であるので、求められる仕事はオーダーすることと、揺るがないこと。それだけで十分なのだ。
「だるまちゃんさんも手伝えよ!」とかは全くトンチンカンな指摘だった。
彼は、「てんぐちゃんみたいな」あれこれを欲しがるが、そこに「立派な」とか「本式な」「高価な」と言った条件が付いてこない。
庭のヤツデなど自然からの提供で、値段はつかない。
そして枯れゆくものである。耐久性にも拘っていない。
その時その時に、ベストなものを選択出来るのは、だるまちゃんのオーダーが
てんぐちゃんみたいな、
“素敵な”
○○が欲しい。
であるからだろう。
世の中の「○○は××」「これはこう言うもの」「それが常識」と言ったお約束にもとらわれていない。
だから、食事に使うはずのお椀を頭に被れるし、調理に使うはずのまな板を足に履ける。
無作法とか非常識とか、そうした括りは本来、自由意志にはないものなのだ。
但し、全体一つの流れには沿っている。
何がしたいのかはっきり伝えて、相手が気を利かすよう仕向けたりしないし、弱いものから奪おうともしない。
まな板下駄が妹的存在からぶんどって作ったものなら、餅の時にあんなに気持ち良く手伝ってくれやしないだろう。
だるまちゃんは、「てんぐちゃんみたいな」ものを欲しがる。
つまり、似ていることを恐れない。
無理に独自性に拘ったりせず、そして反対に、完璧な模倣にも拘らない。
餅やヤツデで十分に楽しんで満足している。
本物か偽物かの判定に左右されない。
高価か安価かの査定にも左右されない。
何にも縛られず自由に、
只、そうしたいからするだけ。
そこに雀の飛来と言う思いもかけない場面がやって来る。
だるまちゃんは別に「てんぐちゃんよりも!」と、勝ちに行ったりはしていない。
逆に、「どうせ真似っこ」とか負け気分を拗らせたりもしていない。
そんな彼の自由さが生んだ餅鼻を、てんぐちゃんは「いちばんいいはな」と讃える。
このやり取りが何を示すか。
てんぐちゃんが“なにもの”であるかも含めて、来週記事にてご報告申し上げることにする。
4日あるので、探るも楽し。
(2020/10/8)