《たまぞちりける》
“白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬき留めぬ 玉ぞ散りける”
(訳)
草の葉の上で輝く露の玉に、風がしきりと吹きつける秋の野原は、まるで紐を通して留めずにおいた宝玉が、散り乱れているかの様だ。
秋の清々しさが映える光景を鮮やかに切り取った美しい歌である。
素直と洗練。不覚の世に在っては合いそうで合わない、2つの要素が見事に溶け合っている。
二十四節気の白露に、白露の和歌に宿る神性を読み解くことにする。
百人一首にも入っているこの歌の作者文屋朝康は父の康秀と共に、高い官職にはなかったが和歌の才で名を知られた人物。
この歌は藤原定家もお気に入りだったそうで、官位に囚われない「いい歌を詠む」者への尊敬が当時にあったのは、単なるインテリジェンスの発揚だけでなしに、「その瞬間虚空と繫がる」ことを、感じ取れていたからでもあると思う。
何せ、互いに歌を詠み合う歌合は一発勝負と決まっている。
権謀術数三昧な環境なので、実際どっかしら打ち合わせタイムも挟まっていたろうが、終始段取りする訳には行かない。
それこそ彼らが嫌った「下品」であるだろうし。
そうした焼き直しがきかない場所での知性の発揮は、性別や、老若、階級、貧富等、様々な枠を超えて感動を起こす。
お澄まししながら実は「ライムの応酬」みたいな勝負の場なのだ。
歌合やら蹴鞠やら観察すると、どんだけ雅でコーティングしても、不覚社会と闘争心は切っても切れないと頷ける。
勿論、まだ新鮮味があった頃の闘争心は、「こんなぶつかり方も出来る」ことを観察する為に発揮されたのであり、当時には必要。
そして、今の今となっちゃあ不要なだけだ。
虚栄心、闘争心、助平心。
色んな思惑で心模様が錯綜する場所で、ひょいっと「秋の野に輝く瞬間の美しさ」を結晶させた冒頭の歌は、貴族達の喉に詰まった繁栄を飲み下す、一服の清涼剤となったのかも知れない。
歌にある「つらぬき留めぬ玉」の玉であるが、当時の玉とは大体が真珠だったらしい。
穴を開けた玉を紐に沢山通して、アクセサリーとして大切にしていた。
それを結んで留めておかなかった時の様に、ぱらぱらと風に舞って露が散る。
美しい光景だと味わいながら不意に、「そこを超えて伝わるもの」に気がついた。
玉は魂に通じる。
つらぬくとは「面・抜く」
体面、面目、面子。
色んな言い方で重視される面。
その縛りを抜け、自由になったのが「つらぬかれている」状態。
人型生命体は面だけで出来ていない。
顔だけで生きる者は居ない。
ハートがあり、ハラがあり、アシがある。
更にその下にも、大地にまで届く根がある。
谷に挟まれた山の稜線を尾根とか言うが、地の底まで降ろす根は人型生命体の「尾」である。
胸に響かせ、腹におさめ、満ち足りて、徹頭徹尾それが自然となる時に、天地に貫かれる。
天から地に抜ける光に貫かれて意識が目を覚ましている時、世間の風に吹かれて散りはしない。
風に吹かれ玉がばらけて散る光景には、そうした天地に貫かれざるもの、目覚めぬ意識の散り行く姿が描れている。
そこに重ねてもう一つ、読み解けた。
玉飾りは幾つも並んで貫かれている。
この歌には、固まる必要はないものが癒着を解かれて、本来の天地に貫かれる為に自由に飛び出していく様も同時に表されている。
一抹の寂しさを纏いながら、そこを超えて清々しく満ちる歓びの爽やかさをこの歌に感じるのは、その為なのだ。
崩壊が、解放でもあると言うこと。
素直と洗練がそうであった様に、合いそうにない「散り行く不覚の姿」と「覚に向かう自由」が重ねられて、溶け合った歌。
つくづくと、見事なものである。
癒着を解き、天地を通す。
(2017/9/7)