《ぐりとぐら その1》
青い帽子のぐりと、赤い帽子のぐら。
本を通じてこの存在達と出会った人がどう感じたのか知る時、その人の意識がどの様な状態か分かるのは興味深いことである。
この物語を巡る様々な人の感想を読んで、それを知ることが出来た。
物語全体に流れる「ぬくもり」や「やさしさ」に、喜びや安らぎを感じる人が居た。
難題と解決のプロセスを見出し、終わりに卵の殻で出来た車を運転する場面を「勝ち誇ったような、ほこらしげで自信たっぷりの表情」と感じる人も居た。
一卵性の双子であるぐりとぐらの対等な関係や、料理して出来たものを森のみんなに分け隔てなく振る舞う姿に「平等」や「平和」を感じる人も居た。
何であれ、そこには各人が持つ「世界はこうあって欲しい」「私もこの様にありたい」と言う理想が反映されていた。
人間は見たいものを見る。
“理想だなんてそんな大それたものじゃなくて、もっとささやかでさり気ないものなんですよ”
この本の世界が好きな人々は、そんな風に仰るかも知れない。
だが理想に、大それてなくてはならないと言う条件は別にない。
ささやかでさり気ない理想もある。
先に「良い悪いではなく」と申し上げておくが、意識に特段の理想なく、主役のぐりとぐらさえ殊更重視することなくこの物語を眺める時、
「森のみんなが同じ御馳走に大満足」
と言う場面には「たっぷりの美味しいカステラ」と同時に、「ウサギや野ネズミやリスやシカを食べるのでなく、カステラを食べたいと感じるライオンやオオカミやワニやクマ」が必要だと気づいたりする。
それぞれの生き物の食性を知っているから気づける訳で、それをまだ知らないちいさな人達が「自分達にとって美味しいものは誰しも美味しいはず」となるのは当たり前のことである。
だが、既にその辺りを知った一部のちいさな人や多くのおおきな人達も、各種族の性質を分かった上で「それは一旦置いといて」物語を楽しんでいる。
「絵本の世界に入って来る時だけ、肉食じゃない」と書かれたゲートがページの隙間に存在するなら、ささやかでさり気なくやさしくぬくもった理想と言える。
こうした「常識を飛び越える」理想を盛り込んで楽しめることは、絵本の魅力の一つでもある。
良くも悪くもなく、その人ごとの「こうあったら楽しい世界」「こうあって欲しい世界」が垣間見えるのは味わい深い。
肉食でも草食でも雑食でも、本質的には皆表現の違う点滅。
ここを腑に落としてから、初めて分かることもある。
ぐりとぐらを観察していたある時、彼らの服の「青」と「赤」、更に帽子の「長さ」と「短さ」に気がついた。
服の色の違いから彼らを、万物の生成を促す「水」と「火」の象徴だと気がつく人も居るだろう。
殻に包まれた「たまご」の中身が外に出て、料理と言う行動の愛を通して「美味しいカステラ」と言う、形を伴う愛に変わる。
そうして生み成された出来立てで湯気の立つ愛を、種族や血縁等の括りなく「全員集合!」で味わう。
二作目の「ぐりとぐらのおきゃくさま」の中では、サンタであることをうかがわせる謎の男性がぐりとぐらのキッチンを無断で拝借してチョコレートのたっぷりかかった大きなケーキを作る。
彼らの世界に、不法侵入と言う言葉はないらしい。
そして「料理は僕らの仕事!」とか言った、領分の限定もない。
頂き物の御馳走をみんなを招待してぐりとぐらも一緒に味わうが、一作目に出て来たみんなが一名残らずそこに居るか編集者がチェックしたと言う話を知って「欠けることない全員である必要」が大切にされているのを感じた。
あの動物達はお気に入りを区切ったり掻い摘んだりして集めた訳ではなく、「みんな」の象徴である模様。
様々な種類の動物達は色んなタイプの人間達を象徴している。
創作物に常識を飛び越えた理想を盛り込む人々も、別に実在するクマやライオンにケーキを食べて欲しい訳ではない。
生まれや育ちや姿形や性格が全く違っていても、集まった人々がみんなで同じ幸せを味わうことは出来るし、それはとても嬉しい。
様々な生き物が同じ美味しいものをみんなで揃って食べる場面には、そんな歓びが表されている。
「水」と「火」は、“みんな”やみんなが味わうありとあらゆるものの生み成しを、分け隔てなく促す。
それはまさに祝福と言える。
何故ぐりの青い帽子は長く、ぐらの赤い帽子は短いのだろうか。
単に差異を出すなら、色を分けた時点で既に叶えられている。
そのことが不思議で眺めていた時、青く長いぐりの帽子は流動、赤く短いぐらの帽子は点滅をそれぞれ象徴していると気づいた。
双子としての彼らは、流動し同時に点滅する、この物理次元の生成をそのまま体現している存在なのである。
そこに気づいて初めて、何故彼らが「同性の双子」なのかにも納得が行った。
「同じもの」の「現れ方の違い」を示しているから。
流動と点滅を象徴し、あらゆるものの生成を促し、味わうことによって瞬間と体験を祝福する。
その祝福の場所では、カニやカタツムリがカステラを食べても不思議じゃないし、卵が車として走っても構わない。
エンジンの仕組みもガソリンや電気等動力源の必要も一切関係がない、何でもありの空間。
人間が好きな時につけ外しする理想フィルターを使うことなく、真っ新な意識で観察しても、ぐりとぐらの世界にはいのちの輝きと創造の歓びがある。
同じであるから出来ること。
違っているから分かること。
その両方を彼らは教えてくれているのである。
全祝う、同の神々。
(2022/2/7)