ふんわりしたタイトルですがとても大きなおむすびで、しかも中の具はピリッと辛みがあります。
あいすみませんが少しずつよく噛んで、お召し上がり下さい。
では記事へ。
《おむすびころりん》
“おむすびころりん すっとんとん
もひとつおまけに すっとんとん”
軽快な歌と共に進むこの物語。
古くは「ねずみ浄土」や「浄土の火」と呼ばれたが、現代では「おむすびころりん」の名で親しまれている。
このお話について観察し、大変重要な情報が降りたので、本日記事にてお知らせ申し上げる。概要をご紹介すると、
働き者の正直じいさんが、山へ野良仕事に出かける。
よく働いて、お昼に一休み。
おばあさんが作ってくれたおむすびを食べようと包みを広げると、中の一つがころころ転がって下に空いていた穴に落っこちた。
すると、穴から
“おむすびころりん すっとんとん”
と歌が聴こえる。
面白くなって、もう一つ穴に向かっておむすびを転がしてみた。
“もひとつおまけに すっとんとん”
歌の続きが聴こえて来た。
すっかり楽しくなり、残りのおむすびを転がして、覗き込んだ拍子に正直じいさんは自ら穴に落っこちてしまう。
“おじいさんころりん すっとんとん”
落ちて辺りを見回すと、そこには沢山のネズミが居た。
「この度は、ごちそうをありがとうございます。お礼に餅を召し上がれ」
そう言って、ネズミ達はちっちゃな臼と杵でお餅をこしらえた。
お餅を振る舞われ、楽しく過ごしたおじいさん。
帰りにネズミ達はお土産をくれると言う。
「大きなつづらと小さなつづら、どちらが良いですか?」
「大きいのは持って帰るのが大変そうだから、小さいのを頂きますよ」
家に帰ったおじいさんが、おばあさんと一緒に小さなお土産を開けてみると、
中には宝物がぎっしり。
これを外から覗いて見ていた隣のおじいさん。
同じく宝を手に入れようと、次の日出かけ、目当ての穴におむすびを放り込むと、直ぐに自分も飛び込んだ。
行程が分かっているからと、ネズミとのコンタクトなどすっ飛ばし、じゃんじゃん省いて先を急ぐ。
ネズミ達が一生懸命お餅をついて振る舞うプロセスもちゃっちゃとやり過ごし、さてお土産どっちの段階で、隣のおじいさんに更なる欲が芽生える。
ネズミどもが居なくなれば、二つとも持って帰れる。
そう考えたおじいさん、猫の鳴き真似をする。
「猫じゃ猫じゃ」と、慌てふためくネズミ達。みんな居なくなって、ついでに穴の中に点いていた明かりも消えた。
真っ暗闇の中に、取り残される隣のおじいさん。
この後に続く結末は様々で、
「穴の中を手探りし、コブだらけになって這々の体で出て来る」とか、
「真っ赤な晴れ着を着て帰って来たと隣のおばあさんがはしゃいで出迎えたら、脱出途中で怪我をして、血まみれになっていたからだった」とか、
全体酷い感じだが、帰って来れるだけまだやわらかくまとまっている。もっときついと、
「土に埋もれて出られずに、モグラになってしまいましたとさ」とか、
「ネズミが浄土の火をふっと吹き消し、あたりは闇になりました」
で、終わり。
闇からどうなったのか、一切説明無し。暗転即終了となっている。
花咲かじいさん超えの厳しさで、消化不良どころか胃ごともぎ取られる様な結末。
これが見事なまでにあるモノコトの有り様を示している。
それは、
悟りと生悟りの差
最初に出て来た正直じいさん。
彼は、ネズミにおむすびを恵んであげることが「親切だから」、それをした訳ではない。
只、単に
面白かったから。
野良仕事にしても、糧を得る為だけでなくそれ自体を楽しんだので、よく働いたが飢えてはいなかった。
楽しい昼ご飯も別に「食べれないと嫌だ・困る」ものではなかったことが分かる。
だからこそ、不意に起きたおむすびINを「損」とせず、穴からの歌声にも楽しい気持ちになれた。
「突然起きた喪失に見える出来事」
それに向けるやわらかな対応に、余裕を感じる。しかも楽しさ極まって、自ら穴にINする。
ネズミは「根住み」にも変換することが出来、根の国底の国に住む存在を表している。
大黒天の眷属でもあり、黒・闇、つまりは虚空に在るもの。
そんなネズミ達に提出した米粒の集合である「おむすび」。
この粒々を統合した「お餅」を、逆にネズミから礼として振る舞われる。
大変興味深いやり取りである。
米の字は分解すると八十八となり、物理次元に具現化される弥栄がMAXな状態。
愛の実践による結びを惜しみなく全力で虚空に捧げる。
すると、結んだ愛が一つの天意に統合されたものを味わう(感じる)ことが出来、更に「宝」=全体の弥栄と端末としての進化を、土産として受け取ることになる。
愛の実践が、どれだけ素晴らしい繁栄に帰着するかが、愉快かつ見事な例え方で表されている。
この様に、真の悟りとは愛と好奇心が自然発生するもの。
それなしにプロセスを形式だけ真似ると、隣のじいさんの様な事態が発生する。
同じくおむすび、同じく穴、同じく落っこち。
途中までは順調である。だが、穴の中での行いが決定的に違っていた。
正直じいさんはネズミ達からの感謝を愛で受け取り、共に宴を楽しんだ。
そして彼らがくれる土産は丁度いいと感じた方を、「どっちがいいか」の指示通りに選択し、それを持って素直に帰った。
起きる何に対しても「個の都合」をかざしていない。
対し、隣のじいさんは愛も好奇心もなく、只、前例を真似ただけ。
それらしく振る舞っても行い自体に楽しみはなく、欲しいのはその先の成果であり、しかも「選ばずに全部欲しい」。
だから、浄土の火も消えた。
意識に愛の火が灯っていないと、どれだけ成果を求めてがっついても、あっという間に消滅することが分かる。
そして帰り道さえ分からなくなる。
当宮にお越しの、グッドセンスかつ愛と好奇心の大切さをお分かりの皆様に申し上げられることがある。
時代の混迷が深まり人心に不安が煽られると、そこに付け入る者も出て来る。
だが、今回は歴史上繰り返されて来たこれまでの「世も末状態」とは訳が違う。
人たらしと同じ位、
生悟りも
命がけ
となる。勿論不覚的な「形としての命」と言う意味において。
実際、いのちとは虚空とそこから生まれる光の行き来そのものであり、隣のじいさん的人々の形が消え失せたとしても何ら「困ったこと」ではない。
生悟り界隈が崩れて土に埋まっても、衝撃や混乱に巻き込まれたりせずに、「ですよね」位に留めて、ご自身の本道を歩まれること。
形だけ誂えて生き残る様な、新世界などありはしないのだ。
上手くやる、が通じない。
(2018/3/12)