《うらめしや?》
本日記事では恨みという固定観念を、昇華し尽くしてくれた“神々”をご紹介。
『東海道四谷怪談』の初演がこの日だったことから、7月26日は幽霊の日と言われている。
不実な夫伊右衛門に裏切られ、殺されたお岩さん。
殺されただけでなく戸板にくくり付けられた後、その姿が隠亡堀の下に突然出て来るシーンが印象深い。
モデルになった実在のお岩さんは働き者で夫婦仲も良く、平和に生涯を全うされたとか。
現実世界の「ささやかな幸せ」。その対極にある「派手な不幸」。
日常であまり起こらないシーンを作り出し、昇華して祝福するのも、舞台の重要な仕事かも知れない。
戸板のお岩がやって来るのが、水際にある暗闇の領域なら、同じ位有名な『番町皿屋敷』のお菊も、やはり水際の暗闇から現われる。
「一枚〜二枚〜…、一枚足りな〜い…」
もう幽霊って言うか妖怪。
井戸の中から幽霊が出て来ることで、恐さが倍増する仕掛け。
洞窟や古井戸等、闇に通じる穴は「異界の入り口」として、怪談話に良く出て来る。
得体の知れないものは、闇からやって来る。
そしてその闇が、例えば不実な夫みたいな「我欲の作る歪み」を是正する。
人類意識は何処かでそう感じて、自分もとっちめられやしないかと闇を恐れる。
又、「分かり易く、すっごく歪んでる奴」を、闇が正してくれるのを心待ちにしたり、喝采を送ったりする。
人類と恨みの付き合いは長い。
“恨みわび ほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ“
“逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし”
もっと前からだろうが、取りあえず平安位で、もうこんな調子。
女も男も恨みに関しちゃ、平等にエンジョイしていた様である。
目が覚めると、当たり前だが恨みとは無縁になる。
毎瞬出ては消えてする点滅状態が宇宙の平常運転につき、起こることを連続して認識&観察は出来ても、そこに強い感情を中長期的に盛り込むことは難しい。
怨霊だって、痴情のもつれだって、とりあえず「継続は力なり」みたいな粘着執念に支えられているのだ。
波間に棒で字を書いて「残れ!」つっても無理な様に、速やかに次の今に移行する世界に、恨みは形を作れない。
「恨み」の他に怨霊の怨と同じ「怨み」や、「憾み」なんて書き方もある。
全て「心」の字が含まれ、「いつまでも心を去らない傷や想い」の存在を表している。
固まっていなければ傷はつけられない。
「我が恋人!」「我が地位!」「我が富!」「我が家族!」と表に出る切っ掛けは様々でも、それらはまず「我が心!」なるものが、凍りつき固まっているから恨める。
恨みは不覚であるからこそ味わえる。
人類史を通して無数に描かれた恨みの中で、迫力も味わい深さも群を抜いていて「もうこれ、ベストオブ恨みでいいんじゃないの」と唸った作品がある。
『源氏物語』から生まれた謡曲『葵上』の中で、葵の上に取り憑いた六条御息所の生霊を、上村松園が描いた傑作『焔』。
金泥で表された不思議な眼差しは、何処をとらえているのか。
この作品は描いた当人も「なぜこんな作品を描いたのか分からない」とコメントしている程、松園の画業の中で異質な輝きを放っている。
「分からない」とはしているが、当時彼女は年下の男性に大失恋したそうで、そこと無縁ではない模様。
大失恋って、面白い響きである。失恋自体、あんまり軽いノリのは無いだろうに、それが「大」。
兎に角、凄いハートブレイクが巻き起こったのだろう。
何であれ同じものが、引き合う。
松園自身を焼く恨みの焔が、恨みの化身の様なビジョンを呼び寄せた。
御息所が纏う着物に咲く藤の花。
藤には吉祥とは別の、「他の植物に絡んで枯らす」と言う一面がある。
そこに、やはり獲物を絡めとる蜘蛛が追加。
逃さへんで
みたいな迫力で、着物なのに特攻服みたいである。
実際、生霊と化してすっ飛んでったので、特攻でまぁ間違いない。
鬼の形相と言えば憤怒を差すが、霊と言う“悪鬼”と化した彼女は薄く微笑んでいる。
恨みは不覚であるからこそ味わえる
と、先程書いた。
これは不覚ならではの分離体験の果てに浮かんだ、喜悦の笑みではないだろうか。
凍った心と
身を焼く焔
上から下からワッショイワッショイ。
物凄い分離で、ここまでやり切れば恨みも冥利に尽きる。
不覚もやり切れば充実の喜び
そんな時代もあった。
そこを経て、変容の時代が来ている。
これから恨んでやると言う奇特な不覚端末は、この『焔』の恨みを超えるつもりなのだろうか。
こんな見事な恨みの後に、どんな追加データを乗っけたって、無様な焼き直しが重なるだけである。
そしてそれらは、新しい世界が立ち上がる程に色褪せ、波に描いた文字程直ぐにではないが、
やがて全て消えて行く。
溶けて流れる新世界。
(2018/7/26)