《あたま山》
今週はあたま関係で、もう一丁。
江戸の古典落語『あたま山』(上方では『さくらんぼ』)から一席設けてみることにする。
人情、滑稽、喜怒哀楽、ある種「人間あるある」の宝庫と言って良い落語の中で、群抜きに謎めいているこの作品。
奇妙奇天烈かつ不条理な内容であり、そしていつの時代にも何故かこの話に心魅かれる者が居る。
書き伝えられ、語り伝えられ、この話を扱う噺家が殆ど居なくなっても、アニメーション作品として「復活再生」されたりしている。
意識の深層に響くものがあるからである。
『ケチな男がおりまして…』
そのケチが、さくらんぼを食べている時、勿体ないからと種まで食べたら、種の一つがどうした訳か頭から芽を出す。
出た芽は育ち、木になって桜の花が咲き、それを見ようとあっちこっちから花見客が詰めかける。
弁当を広げ、歌い踊り騒ぎ、酔って暴れて小便までする。
引用:落語ギャラリー60(学習研究社)より 「あたま山の桜」
酷いやかましさに耐えかねて男は桜を引っこ抜いてしまう。
すると引っこ抜いた穴に雨水が溜まり、いつしかそこに魚が増えて、また釣りや水遊び目当ての客が押し寄せる。
再び訪れたやかましい日々に男はつくづく嫌気がさし、ついには
自らのあたまの中に身を投げて死んでしまう。
『あたま山』『さくらんぼ』どちらの主役も、医者に匙を投げられた後、何とかしてくれと頼んだ植木屋に「桜は無事に移せるが土台(頭)は保証できかねる」と言われ恐くなってそのまま放置、という臆病な面を持っている。
『さくらんぼ』の方ではケチではなく、起きたことをこれも前世の因縁と受け入れる殊勝な亭主として描かれているパターンもある。
「あら立派なことを」とハッピーエンドを感じさせるノホホンとした様子で出だしは過ぎるが、招かざる客の大騒動に耐えかねて、頭に身を投げるのは同じ。
ショックを与えて気を引くことを狙って、肉体の死で遊ぶような作品はあらゆるジャンルでだだ広がりしているが、この作品はそうした単なる“露殺狂”連中にはない、深遠なメッセージを含んでいる。
男が食べたのはさくらんぼの実と種。
イチゴやキウイなどと違い、さくらんぼの種は食べるのに適さない。
丸い実の中心に、丸い種が一つ。
これは現実とそれが帰結する中心点を象徴している。
あたま山の主人公は、現実という現われる果実を味わうだけで満足せず、その原因となる種までも欲しがった。
「種も仕掛けも…」というが、創造の瞬間という種は虚空である全母が担っているもの。
そこを無視して、最初から最後まで己の手で全てを采配したいと言う分割意識の独占欲が、頭(意識)の中にだけ花を咲かせるという捻れた結果を招いたのである。
頭の上に咲く美しい花と、そこに押し寄せる「気に食わない連中」。
何かに似ていると思われないだろうか。
『あたま山』の名の通り、
全ては「あたま」で起きている。
桜は意識の中に構築した「いつか手にする夢や理想」、花見客は「そこを邪魔して来るように感じる人々」の象徴である。
人々を追い払う為に理想を無理に諦めても、出来た空間には欲求不満が残り、結局は水(情報)が溜まって魚と、やがては再び人を集める。
勝手に独占し、勝手に構築し、勝手に敵対し、勝手に疲れ果て、勝手に放棄する。
それも全て意識の中で。
そう分かると、馬鹿馬鹿しくならないだろうか。
臆面もなくケチって巻き起こしても、いつか頂けるご加護を内心で期待して殊勝に振る舞っていても、エゴから始まる物語なら結局は、「見えそで見えないうるわしの桜」を頭に発生させるだけであることはご覧の通り明らかである。
分をわきまえてこその、分割意識。
実を十分に味わい、
次の創造の瞬間を担う種は有り難く
虚空にお返しする。
期待や恐れなどから予め想像をせず
十全を未知のまま“ご創造にお任せ”する。
これが真の「分をわきまえる」ことであり、「偉い人から優遇!偉くない者は下がれ!」と言うのはちっちゃい子達の戯れ言なので相手にしなくていい。
真の分をわきまえる大切さを、身を以て教え続けてきたこの作品。
ここへ来てようやく真価(進化)の花が咲きました。
と、この辺で、お後がよろしいようで。
(2017/1/19)