《Top Of The World》
まるで音楽の神に望まれて生まれた様な声がある。
ここまでのものが世に有って、それでも猫も杓子も音の晴れ舞台を目指すのには不思議な気がする。
勿論、あらゆる活動は全母に捧げる歓びの動きであり、新しい音楽だって必要。
だが、それにしたってこうも「光が強く当たる場所」ばかりにわんさか意識が詰めかけるのには、「バランス悪っ!」と呆れる。
詩や音で自己を表し、束の間の生きた心地を脚光で購おうとする動きは、未だ止む気配がない。
逆に、「彼女」の生きた心地は、その人生で溢れる程浴びた脚光の中には無かったのだろうか。
本日記事で扱うこの曲は、彼らがデビューしてまだ数年、音楽との蜜月が続いていた時に作られた曲。
当初はシングルカットもされず、アルバムの中の1曲として静かに納まっていた。
肩に力の入らない、素直なエネルギーの昇華で世に現われた曲と分かる。
プライベート・ジェットで空の旅をするさなかにしゃらっと生まれたそうで、エロル・ガーナーの「ミスティ」みたいである。
人類意識の奥底に響く作品は、埋もれずに必ず何処かで開けた地平に出る。
この曲を他の歌手がカバーしてヒットさせ、それを受けてカーペンターズも自身のシングルとして改めて世に出した。
これがさらに大きなヒットを生んだ。
“こんな感覚になるなんて
目の前には
素晴らしいものばかり
空は晴れ渡り
目の中に太陽が輝く
驚かないわ
これが夢だったとしても”
通して聴くと、この曲には覚醒の感覚が良く表われている。
この歌の作者は2人居るが、両方若しくはどちらかが、一瞥位はしたのではないだろうか。
それ程、よく捉えている。
“私は世界の頂点にいて 天地創造を見下ろしている”
“物事は同じじゃない 木々の葉の中に そよ風の触れる感覚に 喜びがあるのね”
これは全体を俯瞰で観察しながら、同時に微細なエネルギーの生滅も感じ取っている希有な描写である。
録音された1972は、ヒッピーやらフラワー何やら名乗る者達が、まだ騒がしかった頃。
そうした雰囲気に乗っかってスピリチュアルを押し出した変な有り難みを出そうとせず、ラブソングに納めてここまでの内容を出して来る。
途轍もなくセンスが良い。
寂しさや切なさが多く歌われるカーペンターズの楽曲の中で『Top Of The World』は、珍しい晴れ晴れとした明るさで輝いている。
それはあまりに澄み切って輝いている。
歌っている美しい声の側に、僅かな戸惑いや気後れを感じる程に。
一聴すると男女のラブソングだが、この歌に描かれている「わたし」には分神、「あなた」には全母が現われている。
空間のお母さんに抱かれるの図。
全母への帰還によって全一の観点を開花させた分神は、万物の発生が本来全て「別のもの」、つまりそれぞれにオリジナリティを有していると実感する。
質は同じ。
だが形は同じものが一つとして無い。
その感覚、その理解、その静けさ。
意識だけで、そこを垣間見てしまったら?
これが覚醒の一瞥である。
垣間見なので不覚に戻るが、その感覚を憶えては居る。
そして「それが起きた」ことに留まろうとする。
もう辿り着いた。
もう探求は終わった。
もう私はクリアした。
だからもう、望むものは何もない。
満ち足りて、これ以上求めるはずがない。
だってもう、足りてるんだから!
もっともっと新しい知識や有利な情報をと求め続ける、飽くなき欲求は意識の過食症だが、覚醒の一瞥で「ユートピア確定」をし、お腹一杯と思い定める動きは、意識の拒食症と言える。
体を置き放して頂点を垣間見て、意識だけが満ち足りた感じになり、拍手喝采の中で才能を披露しても、それは変容とも真の至福とも関係がない。
むしろ辛くなる。
蝋で固めた鳥の羽根を背負う様なものだから。
愛する兄とその友が音と言葉を紡いで作った歌の羽根を、彼女の才能は高く高く舞い上がらせた。
歌う時、曲を満たす目覚めの感覚を読み解き、感じ取ることは出来る。
だが、覚醒の一瞥では変容には代えられないのだ。
光の強い場所まで高く上がれば、蝋は溶け、羽根は散り散りになる。
当宮にお越しのグッドセンスな皆様方に申し上げられることがある。
全身全霊と言う通り、意識だけで起きる覚醒などない。
実際、カミさんである御神体の方は「とっくに目覚めて」いる。
亭主である分割意識が一瞥のウトウトでなく、目をはっきり覚まして「揃う」とそのことが分かる。
一瞥の歪みから起きる結果を、身を以て示してくれた端末は既に居る。
起きたことは繰り返す必要が無い。
皆様は、そこを超えて行くことが出来る。
「全て共に在る」と分かって真に目を覚ますと、皆様の中に在る彼女のデータも本当の頂点に還り着くことが出来る。
“あなたの愛が私を世界の頂点に押し上げてくれたの”
全母の天意からの愛に押し出されて、万物は本来の発展と言う「世界の頂点に立つこと」を可能にする。
ヒエラルキーの頂点ではなく、真価の発揮により到達する前人未踏の新地点こそが、世界の頂点である。
無に在る時しか、頂点には有れない。
虚空に還り着き、一体と成って、初めて立てるのが真のTop Of The World。
それ以外は全て、「途中に有るちょっと目立つ出っ張り」なのだ。
無在時、有頂天。
(2017/9/11)