《Home ! Sweet Home ! 》
何処かで一度は耳にされたことがあるのではないだろうか。
それ程に、有名な曲である。
『Home!Sweet Home! 』を、曲はそのままで詞だけ和訳に変えたものが『埴生の宿』。
埴生の宿とは、土の床がむき出しになった素朴な家のこと。
歌詞の中で、世俗の栄華を象徴する宮殿と対比する様に描かれている。
「世俗の栄華と快楽を極めるよりも、簡素な温かさを求めよ」、というのは、人間の理想あるあるの一つ。
只、これでは単なる富裕アンチに留まり、「持つ・持たない、どっちが正解?」と、止まない綱引き状態を生む。
ご承知の通り、豪奢でも簡素でも、決まったスタイルに依存することは正解とならない。
「全部体験できるし、やってみたかったのがニンゲンだよね」と認め、そこを包括し、超えること。
そして外側の暮らしはどんな風にでも変えられる身軽さで、内なる虚空、全母の元に毎瞬還り続けること。
そこにしか本当のSweet Homeはない。
これは家路を辿る歌である。
帰り着いていない地点から歌っているのでブレもあるが、それでもこれが真の家路を求める歌であることが分かる箇所がある。
“A charm from the skies seems to hallow us there.
Which, seek thro' the world, is ne'er met with elsewhere.”
(空の魅力が我らを清めてくれるようだ。
世界中探しても他所では絶対に見つからない。)
空を探して表層世界は大概、空に辿り着く。
精神世界に傾倒する人々が、天を重んじ逆に地を軽んじる傾向に陥るのはその為で、結果として地に足がつかなくなる。
それでは上昇だけして進化はしない。
進化とは上昇ではなく拡大のことである。
地に足をつけずにどれだけ学んでもそれは単なる上昇移動であり、進化ではない。
床が土そのままである埴生の宿が地に足ついた家を表しているなら、まさに絶妙な訳である。
『Home!Sweet Home!』が生まれたのは1823年、『ミラノの乙女』というオペラの中で歌われた。
イタリアをイメージしてイギリス人が作曲し、アメリカ人が作詞したこの歌を、日本人が訳詞をつけて歌ってみたりする。
そんな一連の流れを観る時、家路を求める思いに人種や国の境は無いことが自然と分かる。
明治時代に唱歌として広まった『埴生の宿』は、映画『ビルマの竪琴』や『二十四の瞳』、原曲は『火垂るの墓』などで、“戦争の記憶と共に”というパターン多めで人々の意識に焼き付いた。
戦火の混乱や敗戦の貧しさの中で人は「家路」を強く望む。
虚空の家に還り着きたい想いを、そんな当時の感覚を通して降ろせば、
「真の幸せはシンプル。
でもってシンプルってきっと、貧しくても情が温かいってことだよね。
そんな場所が、一番安心できる我が家なんだ」
で、理解が止まっていても何ら不思議ではない。
むしろ「その時代にはそれが精一杯な受け取り方だった」と讃えたい。
讃えたいし、感謝したい。
その時代を全身全霊で生きた人々が居たからこそ、そこが「人類史上既に体験済」となったのだから。
変容の時代は、あらゆるパターンの「不覚あるある体験」をまとめたものに、支えられているのだ。
路上生活をする人々のことを、「ホームレス」と言ったりする。
だが、実を言えば彼らの状態は「ハウスレス」であり、彼らも含めた不覚状態の人型生命体全員が「ホームレス」。
本来は毎瞬、虚空の実家から送り出されているのに、分割意識が実家の存在を「見失っている」のが総ホームレス状態の不覚社会なのだ。
見失っただけで失ってはいない。
失うことなど出来はしない。
それをわざわざ「失った気分」だけでもと、やってみた目隠しゲームが不覚ゲームである。
意識の目隠しを外して、家路に着く時が来ている。
何処よりも還り着きたかった場所、真のSweet Homeは目を覚ませばいつでも共に在ったと分かるのだ。
感謝と共に、ただいま宣言。
(2017/5/1)