久々に左側が開きました。

 

まぁまぁ長いので、飽きたら適当に区切るなどしてのんびりお読み下さい。

 

では記事へ。

 

と醒》

 

それが世に出たのは数ヶ月前になるだろうか。
テレビのバラエティー番組を通して知ったある台詞の一部が、どういう訳か深く印象に残った。

当宮で扱うにしては近々のもの。
只、もう大分旬も過ぎたろうし、少々長いのだが以下に引用させて頂く。

 

一応、ご説明すると「笑ってしまうと罰に尻を叩かれるゲームをしている番組中で、参加者の前に現われた芸人が、自らに足りないセクシーさを科学の力でアップさせると宣言する。爆発のまっ白な煙に包まれてその姿が見えなくなり、煙が消えた時には、世にセクシーなことで知られているらしい俳優が、芸人の代わりに同じコスチュームで立っていた。」

と、まあそんな状況下で始まる台詞である。

 

 
 『 空前絶後のぉ
超絶怒濤のセクシー俳優!!

セクシーを愛し
セクシーに愛された男!!

浮気 不倫 ダブル不倫
全てのセクシーの生みの親

そう 我こそはぁぁぁ!!

身長184cm 体重74kg
貯金残高7625万円

キャッシュカードの暗証番号
2741

財布は今 楽屋に置いてあります
松本さん!今がチャンスです!!

もう一度言います 2741


 2741(フ・ナ・ヨ・イ)って
覚えて下さぁぁい!! 』

この後、肝心の名乗ったり何だりかんだりがあるのだが、いい加減長いので省く。

行きがかり上載っけたが、セクシー貯金残高は特に重要ではない。
 

聞いた当初、勢いと振り切れ方にびっくりしながら、宮司が意識にとめて呟いたのは

 


「……船酔い…?」

だったからである。

船酔い。

 

その言葉が意識に残った。

だが色んな興味あるものを常に同時進行で見つめている為、その“残る理由”が分からないまま、例によって意識が「船酔い」を放ん投げてしまった。

過ぎること数ヶ月。
定期預金の満期が来たみたいに、不意にその意識に残ったものが大きな気づきを連れて帰って来た。

気づきを起こす呼び水になったものがある。

 


 凡神宮寺の任を通してお目にかかる方の中に、着実に実践を重ねて進化を遂げられている方が居られる。

先日近況を伺う機会があり、そのお言葉の持つ気配の、あまりにはっきりとした違いに、この方と不覚社会の多くの人々との差は何だろうかと意識を向け、はたと気がついたのである。

その方は、

酔っていない

自身がどのような状況に置かれようとも、そこにしなだれかかって甘えたり嘆いたり気取ったりしていないのだ。

起きることについて、「分かっている人、強い人、賢い人として平静を保って対処しよう」と立派に振る舞うことに努め、そう振る舞う自分酔う人々が居る。

 

起きることについて、「何故この私にこんなことが」「何故私ばかりにこんなことが」不運を嘆き、悲しみ酔う人々が居る。

 


進化し続けているその方も、起きることについて「これはどういうメッセージか」「自らの内なる何を表しているのか」を観察はなさって居られる。
だがそこに酔っている様子がないのだ。

これは大きな発見だった。
だが、気づいてしまうと当たり前である。

眠気覚めていること

酔い醒めていること


このふたつを合わせて『覚醒』となるのだから。

酔いにも色々ある。

「ほろ酔い」なら上機嫌、「悪酔い」なら嵐と化し、「二日酔い」なら頭痛や吐き気など不快の渦。

酔いとくれば酒、そんなふうに思い込んでいたがサンシャイン斎藤が教えてくれた。


  そう、酔いには「船酔い」もあるのだ。

御神体と言う「フネ」は、意識の「波」を「平」らかにし、その中心に乗っていてこそ、スムーズに前進する。
感情の軋轢で荒い波を起こしてそこに酔っていると、進まないどころか転覆や座礁さえしかねない。
 


そう言えば車酔いは、なるのは決まって「運転手ではない人」である。
運転手がゲーゲーしながら車を走らせるのを見たことがない。

乗り込んで身を預ける対象を嫌わず、方向指示の権利と責任を引き受け納得して進む者酔わない
この真理が物理次元上に現れている様に感じる。

 

運転手の酔いに、このパターンはあるけれども。

 

 

これは権利だけ行使し、責任を引き受けていないので、やはり蛇行する。

 

で、場合により、こんな感じになる。

どちらのタイプでも、酔っていてはまともな運転が出来ない。


 「自分だと信じた何者か」や「起きていること」以外にも酔う材料はある。
特定の美学や教義、思想などである。

以前から

 

「聖なるものを愛し 聖なるものに愛された私!!」

 

的な、精神世界傾倒者の状態を指して、日記に書いていた表現が、
 
スピはしゃぎ


だが、「スピ酔い」とも言える。

そうした状態にハマる人々の多くが、一見余裕があり平静であるかに見える。

だが、長年に渡って傍からそう見える様に自分を躾けた結果の産物に過ぎず、決して醒めている訳ではない。

静けさに、安らかさに、酔っていないか
恐れず正直に内側を観ることで、醒めているかどうかに気づく。

別に何も不自由ないけど、何も進化していないで堂々巡りな感じ。

 


そんな時は、安寧に酔っていて実は何も手放していない可能性がある。


は酉に星と書く。

酉は酒の入る酒器の象形。
星は、そのまま天体の象形となる「日」に、「生」という草木がすくすくと地上に生じる“きよらかさ”を表した象形を合わせてある。

善であることや聖であることに依らず、只、生じることそのものが既に「きよらか」なのだ。
何気に感動的。

 


 「醒」の字全体で、「酔いがさめて意識の澄み切った状態」を示している。

 

酒自体は良くも悪くもない。宮司にとっては「愉快な味のする素敵な飲み物」となっている。


当宮の読み解きでは、酉は酒器であることを超えて、中に入る酒のサケ・サカという音から幸わいが満ちる器、つまり弥栄の状態を表す。


日(エネルギー)生き生きとさせ、弥栄となる。

 

これが醒めている状態

 


ではその星が九と十になる。
調べると「天寿を全うした人の死に装束を纏った姿」が九と十の中に描かれていると言う。

えっ。
存在として「終わってる」、と言うこと?
 

「ようこそ我が家へ!」

また別の説では九と十で「小さい」意味になると言う。
酒で気が大きくなって、実際は「ちっさい奴」になってると?
 
何とまあ錯綜している。さっぱり分からなかったが、

 

「九分通りの(あつら)えで、十全を装おうとする状態」

 

と上から教わった。

成る程と、やっと腑に落ちた。
そこに酔いの持つ、偽りがあるのだ。

起きることに酔うのは楽しい。
 

 

不覚に在って、素面(しらふ)の現実が厳しいと感じる時には特に。

だが、酔うのにもセンスが要る。
そしてどれ程センスよく酔うのが上手でも、酔っていては足留めになる時がある。

真っ直ぐ進みたい時。

「お気に入りの自分」でも「むかつく状況」でも「素晴らしき理想郷」でも、何にせよそれに酔っていると真っ直ぐ進むことが出来ない

不覚の酔いを醒ますことが、意識の眠りを覚ます、たった1つの足がかりなのだ。

 

醒めてこそ溶け合う世界。

(2017/4/17)