虚空の虚。
七の字までの上の部分は音符(声符)をあらわし、下は「丘」を表しているという。七は音のみでなく、7つの体が発生・収束する先が、虚空であることを示しているのだろう。
丘については「人が作ったものではなく、四方が高く中央が低くなっている」とされ、「中身がカラ、うつろな様子」ここから「むなしい」が派生し、「うわべだけ、うそ」となったという。
「虚は大丘なり、崑崙丘、これを崑崙の虚という」(説文解字より引用)
崑崙とは中国西方にあるとされた霊山で、不死の仙女西王母の住む所とされた。
西方浄土という言葉もある通り、西王母もまた、シの国のおふくろ、虚空を指している。
(「神ドリル・天の巻」より引用)
引用の「シの国」のシとは死であるが、御神体(肉体)の廃棄ではなく、止と始を包括する真の死を指す。
虚も死と同じで、人間意識から誤解を受け恐れられている。
肉体死をあらわす、「むなしくなる」という表現がある。忘れられることを恐れるのも、虚しさがそこに溢れることと関係する。
何もかもが無に帰すのか、と。
他の恐れと比べると、その差は歴然となる。
人間意識は、貧しさや恥などの軽い恐怖であれば、悲鳴を上げながらも関わって弄んだりするが、虚しさはできる限りそれが「むなしくなる」ように、感じないふりをする。
時には他の恐怖を盾に取って、「今忙しいから!」と虚しさを追い払ったりする。
人はなぜ虚しさを何よりも恐れ、避けようとするのか。
当然である。そのようにプログラムされたからだ。どこかの何者かが勝手に企てたのではなく、神なる全一の存在が、そのようにした。
知恵の実の摂取という“魔法”により、楽園である現世に、俗世と呼ばれるテーマパークが誕生した。うたかたの狂騒と混乱の中で、自らが何者だったかを思い出し、本来の姿に変容する、というアドベンチャーゲームの為のテーマパークだ。
そういった場所の、入口からすぐの所に出口(「お帰りはこちら」)を置くだろうか?
貧しさの恐怖、恥辱の恐怖、闘いの恐怖、様々な恐怖の圧を受けきって進化し、最後に虚しさの恐怖の扉を見る。それが出口だ。
そこを開けた時、変容と共に、虚そして空の本質を理解する。
むなしくなる、は空しくなるとも書く。
天を仰いで見ることもできる「むなし」は空で、外側には全く見えない「むなし」が虚。
虚も空も、永遠の絶望などではない。
最も静かで、最も力に満ち、そして最も美しく、天意そのものである、見えざるもの。それが虚であり空である。
(2016/4/21)