《のことほこ》
人類は文字を作り、使って来た。
覚めていない状態で。
しかしながら、覚めていない者が作った文字に、覚めてみて初めて理解出来る情報が含まれていることはある。
人類が「作った」と言うよりその手を通過して、全体一つの流れによって虚空から生み成された文字達である。
我も、その中の一つであることに気がつき、この字の持つ見事さに唸った。
思について調べているさ中の出来事だったが、デカルトの「我思う、故に我あり」が浮かび、「デカルト、“思う”っつったのかな?」と同時に、「我って、思うものなのか?」と二つの問いが発生した。
そして思の前にまず、我の字を観察する必要があることに気がついた。
ちょいと借りて来たとして、普段多く開く右側の記事としても構わなかったが、これは左側として開けよとのことで久々にそうしてみることにする。
不覚の分割意識達が、中々手放すことが出来ないのが「我!」と言う感覚である。
「我」という字の左側はカタカナの「ノ」の下に「手へん」のような形を合わせて鋭くギザギザした鋸の刃を表し、反対に右側の「戈」は矛を表す。
矛盾の片割れである矛が、盾ではなく鋸とセットになっていると言うのは興味深い。
矛は武器として敵を斬るだけでなく、神への供物としての羊肉を切る道具でもあった。
切る用の羊まで含まれたお供えセットになっている字が、「義」。
忠義・義理・信義などの義。
こうして見るとどれも義がつくことで基本、張り切ってる感が増す感じになっている。
和義なんかも、和やかな雰囲気は表向きのみで、水面下で腹の探り合いがあっても不思議ない。
善を美徳とする不覚の人が言う義は、善なる我である。
善が不動のものなら当然に、悪い正義などないはずだろうに、正義による悪手を糾弾されることも世の中にあるのは一体何故なのか。
その辺りを、世の人は観察しない。
誰の義も、その場での「我」が「美」としたものであるだけで、その為どれだけ義を重ねても結論も決定版も出ないのだ。
「我」の字は、鋸と矛を合わせて、「ギザギザのついた形の良い武器や刃物」の事を示すのだと言う解説を読んで、「形の良い」に良し悪しの評価が生まれていることに気がつき、さすがは我と感心した。
「我」は、「自分」を指し示すだけでなく、「形の良い」「折り目正しい」の意味も持つ。
我についての資料に、一人称の「わたし」の意味には我、「折り目正しい」の意味では義を使うと書いてあった。
じゃあ、正義とは「正しい折り目正しさ」と言うことになる。
不覚の人による説明には、「頭痛が痛い」的表現が出て来ることは珍しくもないが、だからと言ってやはり珍妙さは消えない。
こうした変てこ部分を搔き分けて、文字の持つ本質の見事さに辿り着くまでが、中々味わい深いのでこれはこれで楽しめている。
我の字を観察して感心したのは、それがギザギザの刃を持つ鋸から形を借りている点である。
一刀両断ではなく、鋸引き。
その断面には全体一つの流れには表れない凹凸が出る。
この凹凸に、我の個性がある。
鋸刃のギザギザ一つ一つを、何につけ頂点を求める「我」達の象徴として見ることも出来る。
背を比べられるドングリの様に並んでいるギザギザが、それぞれの為だけに四方八方に曲がって切ろうとしたらどうなるか。
その粗さに、我の限界がある。
虚空を分割している、つまり「割々」がわれわれの本来。
それが、世界を不覚の好きに切り分けたいと言う欲求を持つことで歪んだのだと、その流れの見事さに感心した。
我も又、全一の流れに浮かんだ泡であり、その域を出ない。
ノコでない方のホコにしても、供える肉を切ることは出来ても盾に遮られれば突破できずに押し問答となる、限界ある武器。
鋸も矛も、当たり前だが良いものでも悪いものでもない。
それらが無ければ出来なかった体験も数多くある。
特別な自分だけに良い様にと推し進めた結果の、刃の乱れた鋸で雑に引いた様な仕上がりは不覚社会でこれから増々目立って来る。
矛盾を認め、限界を認め、お気に入りの武器を手離す時、
初めて全体性を感じ、理解し、一体誰と戦っていたのかとその不思議さに気づくのだ。
刃でなく、刃並ぶ元を観る。
(2022/4/7)