《養と期待》
鉢の中で、痩せて乾いた土に植わっている植物。
これをそのまま別の鉢に移し替えて、水をドバドバ注いでも生き生きとはならない。
外気の入らない鬱々じめじめした環境下で、水だけが多ければ根腐れをする。
これが先週記事にて申し上げた、“休養について意識を向けていたら訪れた面白いビジョン”である。
「あっ!そうか!!」と膝を打ったのは、休養の養と言う部分が如何に重要か分かったからだ。
時間さえあれば、勝手に休養になる、とは限らない。
その時間を後悔したり恨んだり不安に苛まれたりして使えば、活力が養われるのではなく被害者意識が肥大する。
そっとして置いてくれる周囲の人々が、養分まで用意して土に漉き込むことは中々難しい。
何が養となるかは、人それぞれ異なるからだ。
周りが良かれと思って与えるものが、一層息苦しさを増やすこともある。
最初に必要なのは当人が、周囲や神や運命など何であれ自分以外の誰かや何かから、丁度いいものを与えられるかもとか、養分豊富な丁度いい場所に抱き上げて連れて行って貰えるかもと言った、内心の期待を手離すこと。
そして自ら、養となるものに出会うと決めることである。
すると、新たな展開が起きる。
期待の指が他力に未練がましく引っ掛かっているとその分だけ時間がかかったりもするが、変化は起こる。
遠くに行かずとも、自宅の自室に居て自分のスマホでと言う、自に自を重ねた様な場でも、何の期待なしにふと見た画面に必要な切っ掛けになるものが映っていることもある。
但し、そう言う出会い方をしたいと期待を持った状態で、それは一切起こらないが。
見たいものを見ることに力を入れて、それっぽい“これって運命?!”みたいな場面を捻り出して、乙女チックに喜ぶ人も居る。
乙女の夢を壊す様だが、それは自分の腰肉を削り取って土に漉き込んで肥やしにする様なものなので、削り部分が大きくなるとガクっと崩れる。
そんな自分の足を食う蛸みたいな遊びをしてしまう程、期待することとそれに伴う興奮は不覚的魅力に溢れている。
だが、運命に愛されているとか言った夢見がちな期待を手離して初めて受け取れる、虚空からの滋養はそれとは比べ物にならない。
興奮にも何にも頼らない活力が自然と、静かに、滾々と湧いて来る。
運命に愛されていると言う状況は、唯一とまで行かなくても限定何名様的な特別席じゃないだろうか。
虚空は全ての命に分け隔てなく天意からの愛を送っている。
その自然な流れに乗って運ばれる命が、限定何名様サービスになったりするだろうか。
無邪気を気取っていた乙女の夢が、割と邪気に溢れた不埒であることを噛みしめて、手離す時期が既に来ている。
勿論全て虚空がやってみたかったことなので反省やら後悔やらは要らず、噛みしめた後は「なんちゃって」で手を離すだけで事足りる。
そこに感謝が加われば弥栄である。
普段行かない遠方へ旅する時に、旅先での恋を求める様に何か自分の人生を変えてくれるものに出会えるかもと言う期待を抱きがちな方は、そうした思いも手離すことだ。
日常的に見慣れた景色に紐づく、意識の中に作った様々な制限を崩して、もっと広く世を観察する。
そう意志して旅をすると、思惑に阻まれることなく体験を新鮮に味わえる。
そこにひょっこり、生き方が大きく変化するのに繋がるものが混ざっていたりする。
人生は常に変化している。
意識がぎゅっと握りしめて頑なに固くしているのは、人生ではなく生き方なのだ。
次回も、養について。
(2023/9/11)