《養と呼吸》
捧げる程の「良い」肉をどう食べるのか。
食べるって何なのか。
先週この様に書いたが、食の字はそのまま「食べ物」を表すそうだ。
上の帽子みたいな亼は集めて蓋をするかたち、下の艮は穀物を盛る様子が省略されたかたちで、これらを合わせて食となる。
「集めた食物を食べる」だけでなく、日食や月食の様に「日・月が欠ける」ことも意味する。
艮ではなく、穀物の粒や穀物が芳しいことを意味する皀に蓋をした文字だとする説もある。
いずれにしても穀物である点は変わらない。
わざわざ蓋がされていることもあるし、穀物が芳しいとは、生ではなく蒸すなり炊くなりした状態なのではないだろうか。
と言うことは、養は羊肉と盛られた穀物で出来ている、羊丼みたいな状態になる。
栄養が偏りゃしませんかねと眺めていて、「あっ、そうか!」と気がついた。
後でお下がりとして受け取るかも知れないが、羊部分はまず捧げる、つまり出す動き。
食の方は入れる動き。
この出し入れはそのまま「呼」と「吸」にも通じる。
生きるにあたって欠かせない呼吸と言う動きを、養は一文字で示しているのかと、感心した。
前回記事の最後に、“目を養う時、与えて貰う?”と書いた。
何かを見る目を養う時の養は、
誰かにそうしろと仕向けられるものではなく、
見える目を授けて貰うのでもなく、
見る対象に向き合うと言う自発的な行動によって成されるものではないだろうか。
結果として「その機会を与えられた」と言うことも出来るだろうが、家で寝てる間に見る目が養われたという話を聞いたことがない。
呼吸も自然な状態では誰かや何かに与えられて行うものではない。
どんな生き物も、生まれた当初は自発呼吸。
人工呼吸器とセットで生まれて来るものはいない。
只、呼吸は意識しなければ止まると言ったものではない。
それこそ寝ている間も止まることがない。
意識せずに出来る呼吸。
意識的に行わないと養われない見る目。
養ってくれとは、面倒くさいことや好きじゃないことは、息をする様に全て無意識で出来る風にして欲しい、と言う求めなのだろうか。
食ってけないから養ってくれとか、人はちょいちょい養うことと食わすことをイコールにする。
羊がどっかに振り落とされた状態。
だが捧げなくして、呼吸の呼なくして、循環は起きない。
一方的な食らわし状態では、減るばかりとなるのだ。
養巡りて、育むもの。
(2023/9/18)