《陽を重ねる?》
本日は「菊の節句」とも呼ばれる、重陽の節句の日 。
陽数と呼ばれる奇数の中で、最も大きい数である9が重なる9月9日であることから、重陽と付けられている。
重陽と表現する発想には、奇数は陽数として縁起が良く、反対に偶数は縁起の悪い陰数であると言う選別が関わっている。
陰陽はモノコトに動きをつける目的で分かれたものであり、本来そこに良し悪しの違いはない。
その為、この節句にあまり興味がなかった。
ついでに言えば、菊にも大して興味がなかった。
やたらと特別な感じになっているなぁとか、食べると美味しいねの感想があった程度。
皇室と結びつき、硬貨や旅券、勲章なんかでもお馴染みで、品評会などもある花。
それ以上に有名な“或るイメージ”がなければ、菊は蘭以上の高級路線を歩んでいたかも知れない。
或るイメージとは御存じ、葬式の花と言えば菊と言うイメージ。
陽極まれりとなる節句にその名がつく花が、人が世を去る見送りをする役も担うとは、味わい深いことである。
しかも重陽の節句では菊の香りを移した酒を、邪気を払い命を延ばす効果があるとして、無病息災や長寿を願って飲んだりする。
長生きの願いにも一役買うし、去るなら去るで見送ってくれる。
何と器の大きい、柔軟な花だろうか。
と言うか、菊に対してこんな支離滅裂な協力要請をしておいて「そう言えば、あれれ?」と、ならない人間にも驚きである。
菊の器の大きさは、その字にも表れている。
菊は、艹で「植物」を、匊で「まとめる」を表わすそうで、多くの花びらをひとまとめにした植物と言う、菊のビジュアルがそのまま表現されている。
このまとめている状態が、器の大きさに繋がっていることに気づいた。
つまり、ありとあることは、菊の中では小さな一片。
物理次元のありとあることも、虚空にとって小さな一片。
ごく一部が大きく、価値があると言うことはない。
どれも、ちっちゃな、そして愛おしい一片なのだ。
菊の学名であるChrysanthemum(クリサンセマム)は、ラテン語で「黄金の花」を意味する。
マムの部分が 「お母さん」という意味のマムに通じるとして、ちょうど母の日あたりが開花期にあたる南半球では、カーネーションの様にプレゼントの定番になっているらしい。
菊は母性に通じる花なのだ。
じゃあ、あちらでは墓にどんな花を供えるのだろうか。
葬式や墓参と言えばこれ、みたいな定番はなく故人の好きな花を供えたりするのかも知れないと、試しにオーストラリアの葬式事情について調べてみたら、花はあってもなくても構わないし、喪服はなく恰好も自由。
日差しが強いのでサングラスもOKらしい。
遺族から「故人の好きだった色の服を身に付けて参列してほしい」など、特別なリクエストが届く場合もあるので、その場合は、忘れずにリクエスト通りの色の服を着て行きましょうともあった。
もうどっちかと言うと、結婚式の雰囲気になっている。
まぁそれも日本の風習に慣れた状態から見ればと言うだけで、ところ変われば葬式も変わるのだと、味わい深く感じられる結果となった。
亡くなった方に向けてハイ一言を「お悔み」、香典のことを「不祝儀」と言ったりする様に、祝える祝えないのジャッジや、悔いる感じが発生するのは、日本独特の捉え方なのだろうか。
もしくは陰陽判定のある、東洋の一部に独特なものなのだろうか。
生まれてから死ぬまで、陰陽の概念に只の一度も触れることがなかったとしても、「ああ十分に生きた」と満足して去り、見送る人々が寂しさを超えて祝福と感謝、歓びを捧げるならば、その人生には十分に陰陽の調和がある。
陽極まると言われる日に、改めてそこに気づけたのも感謝である。
分け隔てなく、愛。
(2024/9/9)