《間と合》
時間、空間どちらにも「間」がある。
それら「間」が「違っている」とは、どう言う状態なのか。
そして正しい間があるとすればそれは、どんな間なのか。
「正間」なんて言葉があるのか調べてみたが、地名以外にはない様子。
トンネルがあるそうです。
じゃあ、正に近いものって何かあるだろうかとなって、ふいに合と浮かんだ。
「合否」の様に正しい回答の末、何かに合格するとされる状態がある。
合は正の結果と言えなくもないなと「間」と「合う」を並べて眺め、「間に合う」「間合い」等の言葉があることに気づいた。
人間は、間違えたくないし、間に合いたいのだ。
そして間合いを取ることを重視する。
間違いも間合いも、芸能に由来する日常語であると言う。
「間抜け」「間が持てない」等もそこから来ている。
芸能と言うことは、舞台における演目の中での「間」なのだ。
初めは舞台上にあったものが観客席から日常に流れ出して広まった、間合いを求め間違いを嫌うものの見方。
その変化を追っていて、気づいたことがある。
人間が、と言うか分割意識達が日常を舞台化しようと脚色し続けて来たのが人類の歴史なのだ。
脚色もするし、誇張もするし、それぞれの好みに合った筋書きで進めようと計る。
各人に異なる思惑がある為、その筋書きには一致しない部分も生まれて来る。
細かな所でぶつかり合うことになり、その度に「してやったり」「こんなはずじゃなかった」をあちこち発生させる。
こうしたわいわいと賑やかな騒ぎを乗っけながら、時空間はその様を変化させ続けて来た。
他の者よ我が間に合わせて動け、と言うのは誰が命じたって変てこな話だ。
面白いことに「間」は、元々「閒」と書いたらしい。
門の隙間から月が見える様子を表した字なのだそうだ。
このことを知って、刻々と変化する月を門の中において、時空間の目に見える状態が途切れなく変わることを表しているなら見事だと感心した。
「間」以外の意味としては「しばし」や「へだてる」などがあるそうで、どれも一時的かつ部分的。
当たり前だが、月の満ち欠けを好みに合わせて入れ替えることは出来ないし、ずっと満月とか固定させておくことも出来ない。
王侯貴族でも富豪でも怪力でも博識でも天才でも、誰であっても月の満ち欠けの順序を変えることは出来ないのだ。
そんなの当り前じゃないですか、と呆れる方も居られるかも知れない。
だが、だがこのどうにもならないのだと言う事実を本当に腑に落とせば、真に間と呼べるのは、人の思惑で作った演目におけるものではなく、全体一つの流れに沿ったものであると分かる。
人が作ったどんな間に、その場その場で間に合っても、常に次の「間に合って!」が生まれるだけ。
全体一つの流れを観た時に、実は全て間に合っている。
お断りをする時に「間に合ってます」とするのも面白い表現だが、何もかも間に合っていることが分かると、間違い探しする動きも消えてしまう。
そして恥も消えてしまう。
恥の感覚に振り回されるのも、覚めない間だけ人類に可能になった期間限定の遊戯と言えるかも知れない。
恥が消えるか、恥と共に去るか。
(2024/3/28)
3月のふろく《恥観察祝福メモ》
人は恥を嫌いつつ意識の中で中々手離しません。
同じ恥はかかないぞと気を付ける為に取っておいたりもしますが、注目すると不快なので多くの人は意識の奥に仕舞い込みます。
そうして恥の記憶やそこに紐づいた感情は、普段見えないように天袋に押し込んで、たまに開いた拍子に頭の上に降って来る ガラクタみたいになっています。
そんな恥を観察し祝えるメモをこしらえました。
上のカラフルな3つの手毬には、振り返ってみて記憶に残っている「これは恥ずかしかった!」と言う思い出を、
真ん中の巻き物には、上の恥達の中に共通するものはあるか中立に観察されて、ご自身の中で一体何を恥だと見なしているのかまとめた内容を、
それぞれ、お書き頂ける様になっています。
まとめを天意からの愛で祝福出来ると感じたら、下の桜舞う空間に、恥へのお祝いメッセージを書いて贈ってみられて下さい。