かねほとけ

 

世に袴田事件と呼ばれる出来事学ぶ中で、以前から不思議だったことについて「そう言うこと!」と膝を打つ、素晴らしい発見があった。

 

それは弟さんと一緒に住む場所として、姉ひで子さんが59歳でローンを組んで、4階建てのマンションを建てた話を知った時に起きた

 

“向こう三軒両隣がないところ。うるさくない。お付き合いがなくていい”

 

と言う基準で場所を選ばれており、周囲を気にせず過ごせる静かな環境で、晴れて自由のとなった弟と一緒に暮らせる家を手に入れる、その為に契約した還暦手前の住宅ローン。

 

膝を打ったのは、ご本人が建てた理由について語られた部分である。

 

“私の自分の生きる希望として建てた。借金でもしていれば、自殺もしないだろうと”

 

 

借金が自殺を止めることもある。

 

これは本当に、素晴らしい発見だった。

 

借りたお金を返さずには世を去らないと言う意識の人でなければ、この言葉口にすることは出来ないだろう。

 

逆に言えば、返さずに済めばそれに越したことはないと思う人にとっては、無縁の言葉である。

 

ひで子さんはローンを組んだ理由について、別の媒体では表現を変えて「何か生きる為の目標を持ちたいと思った」とも仰られている。

 

 

希望、目標、どちらも世の中的にはポジティブな、明るい言葉ではないだろうか。

 

借金を苦にして自殺をする人がある一方、借金を糧にして生きる人もあることは知っていた。

 

だがこれまで世の中で見て来た、人が借金を糧にするパターンはどれも「より大きな儲けの為の投資」として借りた金を扱うものばかりだった。

 

「何故それしかないのだろうか?」と、ずっと不思議だったのだ。

 

上手に扱えないと危険なものとして、カネは怖いとか借金さえなければとか悪者扱いされる。

 

 

そして、上手く行かない人生責任まで、どさくさ紛れでに負わせる人が後を絶たない。

 

おかしな話じゃないだろうか。

 

素晴らしい発見に手を叩き、「そうだよ、それしかないってことないもんね!」と言ったところから、

 

仏像を拝む

 

仏像で人を殴る

 

と言う、二つのビジョンが降って来た。

 

拝むことで生きる支えにするなら、御仏の目印となる物体

 

 

同じ物体を、殴ることで人を傷つけたり死に至らしめるのに使うなら、それは鈍器となる。

 

モノはモノ、コトはコト。

 

もない。

 

それらに方向性や役割を定めるのは、常に意識なのだ。

 

自らの借金について、借主であるひで子さんの見方はとても爽やかだ。

 

 

“バブルがはじける前に借金できたのは運がよかったね。

 

返済のため全室を人に貸し、自分は勤め先の一室を借りて暮らしました。

 

完済してマンションに引っ越せたのは79歳でしたか。”

 

 

弟と暮らせる場所を作ろうと、買ってから住むのに結果として20年かかるマンションを購入した訳だが、ひで子さんは

 

私は自分のために自由奔放生きてきた

 

と、語られている。

 

自由はかねにもものにも属しない。

 

意識に属するものである。

 

生き様が、ひらく自由。

(2024/10/24)