《適機到来》
高温や風雨、世に起こる色々な環境の変化。
既に申し上げ、お分かり頂けてもいる様に、これらは別に天罰ではない。
それを人間同士で行う感情ドラマに当てはめて、自然の流れに対しても「自然様」みたいな役を勝手に振りがちなのが覚めぬ人々。
そうして、お叱りからのお許しコースや叱咤激励イベントやらを求めても、特に何も返っては来ない。
必要なことが必要な時に起きている、それだけなのだ。
道を踏み外したから、どんどん辛い状況になっている、と言う訳では全くない。
只今の環境変化は、
本気で御神体と向き合う必要
これを示し、その実行を支えるものとして起きている。
穏やかな過ごし易い環境に居る時、多くの人はそれを当たり前と見なして胡坐をかく。
そして当然の様にして多少の無理や無茶を御神体に求めることが増える。
帳尻合わせは環境と御神体に丸投げして、ずっと気儘にやって来た訳である。
「自分さえ我慢すれば」とか自己犠牲的献身を思い描いて、誰にも迷惑かけていないつもりでも、伴侶である御神体はバッチリ巻き込んでいる。
そうしたことを繰り返しやって来た。
意識内に自他の分断があるからこそ出来たことでこれにも又感謝ではあるが、期間限定の不自然キャンペーンみたいなもので際限なくずっと続ける様には出来ていない。
珍妙なキャンペーンが終了した後に必要となっているのは、肌理細やかに御神体の状態に意識を向けて「適度」を叶えること。
適度な温度。適度な運動。適度な休息。適度な飲食。適度な入浴etc。
それだけでなく、世の中で必要な役割を果たすこと。
これらについて、分割意識が御神体から伝わるメッセージを丁寧に聴き、意識の方も意志を伝え、感覚を共有して行動する。
分割意識の独断で事を進めていた亭主関白時代は既に終了しているのだ。
適度とは、手抜きとも雑とも中途半端とも違う、肩に力の入らない自然な状態のことであり、だからこそ全力が発揮される。
全力を発揮するのに、適度は欠かせないし、適度を叶える時に、本気は欠かせない。
本気で向き合う時、意識は静かになる。
入学試験を受けている時に興奮し過ぎて答案をひっちゃぶいたりはしないし、「別れよう」と言う時に銅鑼を打ち鳴らして参上したりもしないだろう。
何かが決まる時、不覚であっても大抵静か。
まして覚めていると、胸騒ぐ理由もないので坦々となる。
人間は本気と熱意を混同することも多いが、一時勢いづくだけの熱意は、本気とは異なるものである。
本気である時、天の意志が、実現の地に根を下ろす。
本気には、自然な根気が生まれるのだ。
まず適を知る。
(2023/8/21)