《逃と休》
“逃げることは別に恥ではない、役に立つこともあるかも知れない、だが結構高くつく”
前回記事で、この様に申し上げた。
「現状が辛過ぎて、新しい場所に胸を張って行く元気がない場合もある。そう言う時には、逃げるべきなのでは?」
そんな風に思われる方は、逃げると休むを混同している。
鬼ごっこを見ても分かるように、逃げるのにも気力と体力が要る。
物陰に逃げ込んで身を隠しても、逃げ続けていると言う緊張感やここも本当に安全だろうかと疑う不安などは残る。
それが心労となり、消耗は続く。
本当に元気がないと言うなら、必要なのは休むことである。
静養や充電、リフレッシュ、仕切り直し。
これらはどれも逃亡とイコールにはならない。
何の罪もないなら、一体何から逃げるのか。
エゴにとって、逃げには魅力がある。
他の人が逃げられていない中で脱出出来ると言う快感。他の人が頑張っている中で楽出来ていると言う快感。それが魅力となる。
集団行動から離脱する背徳感を罪悪感で包んで、罪悪感に苦しむ真面目で善良な人と言う雰囲気にセルフイメージを整えようとする人も居る。
良し悪し判定にとらわれずに全体一つで観ていると、そうした人が苦しむ風で居ながら、甘い餡子を塩味をつけた餅で包んで両方の味を同時に得ているのが丸見えとなる。
実際、逃げていない他の人々が頑張ることで辛くなっているか、楽を出来ていないかは定かではない。
その場で楽々過ごせている人だって存在するだろう。
このことに逃げた人も気づいているから、予定したルートを外れて逃げさせられたと言う被害者意識も発生する。
甘さと塩気に、ピリッとした辛味も加わる。
あくまで“逃げ”ることが出来たと思っている人が想像の中で得る味で、中毒性があり、そこにハマる人も居る。
想像で行う甘じょっぱピリ辛中毒。
エゴはとても器用だ。
いたずらに逃亡者のゲームを始めても、それはそれで疲れることだろうし、抜け出し難くなる。
学校には卒業があり、会社には定年があるが、逃避行にはそうした節目がないからだ。
消耗する暮らしから別の消耗する暮らしへと身を投じるのではなく、休養をすること。
とは言え、気力体力を養う休みにするどころか、そもそも誰憚らず休むことさえ苦手な人は多い。
逃げ出さずに頑張り続けている人々も、生真面目である程、休むことが苦手だ。
だが以前申し上げたこともある通り、必要な時に適度に休むことはとても大切。
この適度が分からないことが、休みを一層難しくしている。
適度が分からないのは、日々の忙しさに耐える為に、御神体と通じ合う感覚を鈍くし続けて来たからである。
その忙しさ、抱えている用事の多さや内側に発生する気忙しさに耐えることが必要かどうかも含めて、生活と人生を見つめ直してみる時に、休養は欠かせない。
人がその人にとって必要な役目を果たすことを誰も代わってはくれない様に、
人がその人にとって必要な休みをとることも他の誰も代わってはくれない。
代えがきかないなら、休みも役目の内ではないだろうか。
休養について意識を向けていたら面白いビジョンが訪れ、「あっ!そうか!!」と膝を打った。
次週は、それについて書かせて頂く。
狡い休みはない。
狡さは心を休ませないから。
(2023/9/7)